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サブカル大蔵経249林隆雄『インドの数学』(ちくま学芸文庫)

本書で紹介されるインド学テキストで、インド人は、論理的、順序好きだった姿が浮かびました。インドは、カオスそのものイメージしかないんですけど、頭の中はクールなのかなぁ。

順序…。論理…。そこに妙にこだわるインド人。輪廻思想にもつながるのかな?

そして現代インド人の働き無しでは成り立たない現在のコンピュータ業界の源流。

数式は読み飛ばしましたが、貴重な一冊。

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『ラリタヴィスタラ』は、古い伝承によりながらも大乗仏教的に脚色されたブッダの一生の物語である。その第12章では、年頃になった菩薩(ブッダ)が様々な分野の技能に卓越していたことが描かれる。数を数えることに熟達したシャカ族の「ガナカ大臣」アルジュナが、菩薩に尋ねる。「少年よ、百コーティ以上の数え方(ガナナーガティ)を知っているか。」(中略)菩薩は答える。「コーティが百でアユタと呼ばれます。アユタが百で二ユタ(那由多)と呼ばれます。(中略)ラクシャ(10の5乗)[数えるごとに土粒一個?]を投ずる行為によって山の王者須弥山も壊滅するでしょう。ラクシャ[数えるごとに砂粒1個?]を投ずる行為によって、ガンガー河の砂も完全に消失するでしょう。p.23.24

 仏教と数学。文系は数学苦手だから、仏教の勉強と数学の勉強はいちばん縁遠いものにしがち。しかし、論理的数学的思考と仏教が基底でつながるのであれば、理系の方の仏教解説書の方が説得力ありますね。大乗のブッダの才能のひとつに計算が加えられている貴重な資料。

数学書、天文書で数としてのゼロを表すのに用いられるサンスクリット語には四種が知られている。一般に「空」(そら)を意味する多くの語群(アーカーシャ、カなど)、雲を意味する語群(メーガなど)、空虚、欠乏を意味する語(シューニャ)それに充満を意味する語(プールナ)である。
記号としてのゼロから数としてのゼロへp.58

 学生時代に読んでいたインド文学という世界は、とにかく、ひとつの概念を多くの単語であらわそうとしていました。ここでも、ゼロという概念もシュンヤーだけではなかったんですね。雲メーガ、懐かしい。メーガ・ドゥータという詩がありました。

このように職業としてのガナカ(計算士)は、古い時代にはもっぱら会計士をさしていたが、7世紀頃までには占星術師も意味するようになり、次第にそちらが主になっていったと思われる。p.120

 会計士→占い師。今、竹中平蔵の本読んでるんですけど、少し頭に浮かびました。


ある王がビックニーに「如来は死後存在しますか、それともしませんか」と尋ねると彼女は逆に問い返す。「あなたの算術士たちの中でガンガー河の砂ががいくつあるか数えられるものがいますか、また、大海の水の量を測ることのできる算術士はいますか」と問う。「如来は大海の水の様に深く測りがたいのです」と言う。p.123

 尼さんと王様のタイマン。少しはぐらかしてるような気もしますけど…。

リス・デイビッツの『ミリンダ王の問い』の注釈。ムッダー古い指算、ガナナー新しい純粋な算術、サンカーナ穀物収穫推量p.125

 三種類の計算。そろばん、電卓、予報か。経済学の萌芽でしょうか?インド的経済学ってあるのかな。生産より分配みたいな。でももう、グローバリズムどっぷりかな。

ガニタ(計算)とジャイナ教p.135

 ムンバイ近郊のジャイナ教徒が、現代インドの経済を導いている。不殺生ゆえ、金融や商いに特化。その根底。

パーティーとは。板書、手順、方式。パーティーガニタ、アルゴリズム数学。p.247

 なんか、Googleとかもこのころから存在していたような気になってきました。Googleインド起源説^_^


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