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サブカル大蔵経341中村雄二郎『術語集Ⅱ』(岩波新書)

日常に入り込んでいることばを中村雄二郎さんが丁寧に確認していく本書。再読して今回は特に医療分野の言葉たちが引っかかりました。貴重な示唆をいただきました。

【インフォームド・コンセント】生命倫理懇談会の答申に基づいて日本医師会が採用したその訳語〈説明と同意〉がその後なかなか様に受け入れられないことである。この要約はあくまで患者の立場から言われているもので〈説明と同意〉のように説明する側と説明を受けて同意する事が分かれているわけではないと言うものだ。〈納得・同意〉と訳すのがいいという。しかし問題がある。/アメリカにおいては、何よりも、医療において、医者が患者に対してなすべき説明義務に違反した疑いのある時に、法律上の問題として現れたものである。さらに言えば、医事紛争・医事訴訟の頻発がきっかけになって、それに対処するために医者の側から自己の権利を守るために取り組まれるようになったのである。p.27

 〈説明と同意〉か、〈納得と同意〉か。〈説明受けて納得して同意〉が理想的か。しかし、患者側の納得って、そんなに簡単なものではないような…。印象的には、患者側のためでなく、医療側のための言葉ということに受け止められがちかと。次ページに患者側と医師の〈分業〉という言葉があった。医療の進化なのか、変種なのか。

【安楽死】人間の尊厳が〈誰の観点のものか〉が問題になるのである。p.17

 たしかに、〈誰〉側の視点なのか。

倫理懇親会でのアンケート。脳死や心臓移植を論ずるにあたっては日本人の死生観の特殊性を考慮する必要があるということだった。西洋、人工心臓を持った死体。東洋、もがり。p.129

 〈死生観の特殊性〉ですか…。

【脳死】宗教では死の判定は問題にされていない。日本の僧侶の反対は儒教的反対。p.134

 日本の特殊性。儒仏神混合か。

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【悪】西洋の伝統的哲学の存在論では、悪が基本的には〈存在の欠如〉としてしか考えられてこなかった。p.1

 欠如を埋める思考

【アニミズム】南方熊楠が粘菌に惹かれた理由は2つあった。1つはそれが生命の原初形態であるために、生と死の込み入った在り様を調べるのに好都合だからであった。《無形のつまらぬ痰様の半流動体と蔑視されるその原形体が活き物で、後日繁殖の胞子を護るだけの粘菌は実は死物》なのである。もう一つは粘膜が境界領域の生物であり、植物とも動物でもいい難いものだからだった。p.10

 今までの常識で〈分けられなくなった〉生死を、熊楠の粘菌研究が誘ってくれる。看護学校の授業でもこの話しています。

【老い】明治20年の平均寿命は、男33歳女34歳。昭和10年は、男45歳女46歳。昭和40年は、男60歳女72歳。p.37

 命の長さと短さ。時間感覚。

【オリエンタリズム】日本の屈折したオリエンタリズムと拓殖事業。p.50

 姜尚中さんの日本のオリエンタリズムの本を買いました。東洋学の異様について。

【顔】レヴィナス「顔には本質的な貧しさがある。」p.54

 最近よく思うようになりました。

【グノーシス主義】キリスト教の歴史は、ほとんど異端を生み出し、それを排除していく歴史だった。つまり異端の産出と排除によって、正当性を主張し続けた歴史だった。p.71

 その自転車操業感とダイナミック感。

特にユングの心を引いたのは「善と悪とが互いに拮抗しながら一体化して世界を動かしていく」と言う考え方であった。p.72

 グノーシス主義再評価なるか。

【宗教】我々人間の生命力が、いわば逆光を浴びたときに気づき、意識するものとして、である。/宗教において特別な意味を持つのは生命の変質であり、有限な生命から無限の生命の転換である。p.82.84

 〈如来の大悲に抱かれて限りなきいのちをたまわり〉という文言をよく引用するのですが、まさにこのことなのか。

【儒教文化圏】この墓参りの墓や先祖供養の位牌の成立も儒教の教えによっている。それらの前提になっているのは死者の魂である。p.87

 日本は儒教文化圏。

【情報】この〈かたち〉との関係から情報は質料(物質)よりも形相(観念)に近いことになる。p.91

 かたちか…。上辺ということか?

【人工生命】問題の1つは何をもって生命とするかと言うことである。p.96

 対極的な〈生命と人工〉がイコールになることが当たり前になるのか。

【人工知能】もともと計算機を意味するコンピューターが人間のように思考する機械、つまり人工知能を目指すようになったのは本質的に計算が思考と結びついているからだ。p.101

 計算できない思考があるかどうか。対AI将棋での人間側の苦悩が記憶に新しい。

【崇高】崇高の感情については、その快さは、想像力の自由な遊びや戯れから直接には得られない。それは対象への反発を通し、不快を介してのみ得られる。p.108

 カント『判断力批判』より。不快が崇高を生み出すんですか!

【世代間倫理】従来は倫理と言えば、その中心は義務であり、個人としての倫理社会の一員としての人事が考えられた。p.111

 義務の内容。従う法的なルールか、自発的な律なのか。

【テクネー】技術に盲目的に反抗したり、技術を悪魔の仕業として呪詛したりすべきではありません。むしろ望ましいのは、技術的な事物を我々の世界に入れさせながら同時に《それらを外に、物としてそれ自体の上に置き放つ》ことであろう。つまり、《物への関わりのうちで放下すること》である。この〈放下〉とは、全てを捨て去ることによって得る〈落ち着き〉のことである。p.120

 ハイデガー『放下』より。どうしても技術というと原発のことにつなげてしまう。


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