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#16 学校と文理選択の矛盾

高校時代、文系と理系を選ぶ、いわゆる文理選択。
学校それぞれで仕組みや呼び名の違いはあると思いますが、私の勤務校でも文理選択の時期になってきました。

皆さんはどうやって選びましたか?

進路や将来の夢
好み
得手不得手
親からの勧め
etc...

さまざまあると思います。

今回はそんな文理選択のお話です。

なぜ選択するのか

高校生にとって、文理選択は大きなターニングポイント。
大人になってからも尾をひきます。

慎重に選びなさい。と生徒たちに伝えている私ですが、
正直この選択は「あまり意味がない」と思っています。

確かに、学校での履修科目の影響や実際に受験や就職で使う科目への影響が進路選択に加味されるわけですが、

実際問題、一部を除きそんな影響は「あんまりない」

文系を選んだとしても理系の職業に就ける。
逆もまた然り。

影響があるのは、大学等の推薦試験の受験資格くらい。

今の時代、資格や免許なんてものは家にいながらも取得できます。

ではなぜ、選択させるのか。

それは、「進路選択を狭めるため」です。

進路選択が狭くなる

子供達が将来の進路を選ぶ際、候補が沢山あっては困ります。
だからこそ選択肢を減らす。

その子にとって、それが適切かどうか誰にもわからないのに。

人生に正解なんてありませんが、与えられる時間は同じ。誰にとっても一年は一年だし、一秒は一秒です。

そんな時間の中、進路選択のために候補を削る。
言い換えれば、あったかもしれない可能性も削っていく。
削られた可能性を復活させるには大変な労力がかかります。

そんな選択をさせることで、得ることができるのはなんなのか。人間誰しもそんなに器用に人生を決めれるわけがないのに。

それなのにも関わらず、私たち教師ないしは大人たちは文理選択をさせ、あたかも文系は文系の仕事を。理系は理系の仕事を。と子供たちに勘違いをさせていく。

私もその一人で、それに気づいた頃には、現職に就いていました。

文系でないとできない仕事なんてない。
逆に理系も同じ。

資格取得のために必要な履修科目はありますが、それは時間とお金が解決してくれる程度のものです。

「キャリア」形成

文系理系の違いと言っても、それほど大きな相違はなく、授業で何を学ぶのかくらいです。

先に述べたように与えられた時間を有効に活用させ、狭めた可能性をできるだけ広げようとします。

そして、そこに関わるのが、「キャリア」という文言。
人材を確保しようとする人たちにとって、その「キャリア」は一つの評価基準になっていく。

学校で何を学んだか、何を経験したか、いわゆる「ガクチカ」が必要だと言いながらも、結局は「キャリア」。今まで何を「一貫」して学んできたのか。
それを見ていく大人たち。
だから文理選択を行い、「キャリア」形成を目指す。

早いうちから「一貫」した「キャリア」を積むことができるのか。
これに掛かっているのかもしれません。

そんな社会があるからこそ、文理選択があり、可能性を狭めることで「キャリア」を形成していかせる。

これが良いことなのか悪いことなのか。
それはそれぞれの人生でしか分かることではありません。

コストパフォーマンス・タイムパフォーマンス

文理選択をすることでのネガティブなイメージを述べていきました。
誰にも正解がわからない選択なのに、高校生に選択させることについて考えてきました。

「キャリア」の形成が重視されるこの世の中。
今まで「一貫」して何をしてきたのか。
自身の可能性を潰してまで没頭してきたものがあるのか。

これが悪いとは言いません。

ここで問題提起したいのは、「コスパ」「タイパ」という効率の良さを学校が求めていいのかということです。

効率よく生きていく

ということは

可能性に出会えない

ということにつながるということです。

文理選択もまた「コスパ」「タイパ」の一端であることを知っておきたい。

「コスパ」「タイパ」を昨今の若者は強く意識している
と言われますが

昔から文理選択のように「コスパ」「タイパ」が意識されていたのです。

しかし、今と昔で違うことは、「副次的産物」に出会える機会の寡多です。
効率よく「答え」を得ることができる今は、「副次的産物」に出会える機会を失います。

コストや時間がもったいないから選択肢を狭める。
やりたいことが決まっている子どもには、最善の選択のようにも見えますが、そういうわけでもない。

一見効率が悪く見えることでも、得るものがあります。
また、得るものがなかったように見えたとしても、「得るものがなかった」という経験を得ることができます。
これもまた「副次的産物」です。

「副次的産物」に出会える機会が沢山あるのが「学校」なのではないでしょうか。

「コスパ」「タイパ」を重視し、文理選択を強制することでそんな機会をも奪ってしまうのは本末転倒なのです。

可能性を広げようと頑張る先生たち。
しかし、可能性を限定させないと進路決定へと導けない。
そんな矛盾を感じながら今日もまた教育現場で私は働きます。

おわりに

今回は「文理選択」という話題から学校のあり方の話にまでつなげてみました。
散らかった文章、論理の飛躍が多くなってしまったことを反省します。

学校で子どもの可能性を広げながら、あったはずの可能性を潰してまで進路決定を推める必要があるのでしょうか。

確かに、学校を出た後のことは大事です。
その手助けをするのが教員の役目でもあります。

そんなネガティブに考えていては仕方がないので、私なりの結論はこれです。

選択肢を限定することもまた「学び」である。

失敗しても、取り返しはつきます。
成功すれば、万々歳。

文理選択を通してそれを学ばせることができれば良しとしたい。
それが今でなくても。
それもまた「副次的産物」なのだから。

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