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『群衆心理』を読みながらコロナ禍を観察する ◆読書ログ2020#03◆

2020年の3冊目は、1895年にフランスの社会心理学者ル・ボンによって書かれた古典的名著『群集心理』です。
今回は、単に本の要点や評価をまとめるだけでなく、新型コロナウイルスの話題とも絡めながら進めてみようと思います。

一般的な「群衆」の特性

本書で「心理的群衆」と名付けられる人間の集団は、それを構成する各個人の性質とは非常に異なる新たな性質を備えるという。
単に多数の個人が偶然により合っただけではそういった性質をおびることはないが、何らかの刺激の影響をもって一つの集団精神が生まれ、単一の存在を構成するとき、あるはっきりした特性を示すのである。

まず、あらゆる群衆に共通の主要な性質をまとめてみよう。

群衆中の個人は、単に大勢の中にいるという事実だけで、一種不可抗的な力――強大な力の観念、そして罰を免れるという確信――を感じるようになる。
すると、個人を抑制する責任観念が完全に消滅し、知性や理性といったものはほとんど機能しなくなる。
意識的個性の消失、あるいは匿名化と言い換えることもできるだろう。

こうした群衆には、暗示のかかりやすさ感染のしやすさといったものを見ることができる。
ただし、ここでいう「感染」とは、感情や行為の感染、すなわち精神的感染を指し、もっぱら前の被暗示性ゆえに引き起こされる。

もちろん、これらには個人間に程度の差があるはずで、おそらく、はじめはごく少数の人間に対する暗示にすぎないのであろうが、その暗示が彼らにとって同一のものであるために、たがいに作用しあって強烈なものになる
暗示にかかりやすい者から順に、いや、暗示にかかりやすい状況にある者から順にそれは感染していって、やがて群衆の感情や観念は同一方向へと転換される

集団的錯覚

皆がそう言っているから/しているから、偉い人が、専門家が、親しい友人が、善良な隣人が――そういう理由だけで、自ら十分に吟味することもなく、その観念や行為を「正しい」ものであろうと認定して彼らに倣った、というような経験はないだろうか。

群衆中の個人にとって、自身の理性的作用をもってこの暗示に抵抗するのはこの上なく困難なことであり、仮にそれを試みたとしても大勢に押し流されてしまう。
せいぜい、別の暗示によって心機を転換するよりほかにない。
しかもこれは、その個人にいわゆる「教養」があるか否かといったこととは無関係で、誰もが容易に集団的錯覚の状態に陥るのである。

群衆中の個人は、もはや彼自身ではなく、自分の意思をもって自分を導く力のなくなった一箇の自動人形となる。

意識的個性を消失した個人は、およそ単独のときであれば当然それを抑えたようなことも、たとえそれがその個人の性格や習慣に全く反するものであったとしても、あらゆる暗示にしたがって観念や感情が容易に変化し、直ちに行為に及んでしまうのである。

群衆の信仰

さらに残念なことに、群衆には主観と客観を区別する能力が欠如しているらしい。
そのため、実際の現象とは全く異なるものであっても、それがもたらした心象(イメージ)を現実のものとして受け入れるのである。

そして、その心象が強烈なものであるほどに感染しやすくなる
感染する暗示の出発点が、常に最初の目撃者の曖昧な追認によって引き起こされた「錯覚」であるというのはこのためである。

何世紀にもわたって人々の間で受け継がれてきた神話や伝説の類を考えれば、このことは容易に理解できるだろう。
インドのブッダと中国のブッダとが何ら共通点を持たないように、それが事実であるか否か、あるいは「正しい」か否かといったことは問題ではなく、群衆にとっては、ただそれがいかなる感情や行為を誘起するかだけが重要なのだ。

したがって、暗示された意見や思想や信仰は、大雑把に受け入れられるか、退けられるか、あるいは見向きもされないかである。
群衆に受け入れられたものは絶対的な真理とみなされ、逆に退けられたものは絶対的な誤謬とみなされ、それらはやがて無意識界にまで浸透していく。
また、十分に刺激的な心象をもたらすことのない意見や思想は、はじめから群衆には相手にされることもなく葬られてしまう。

繰り返すが、そこからどのような効果が生じるかのみを考慮すべきなのであって、その思想そのものの価値の高い低いなどは全く重要ではないのだ。

フェイクニュース

以上を踏まえ、マスメディアの報道やSNSの投稿において頻繁に観察されるフェイクニュースというものについて取り上げてみたいと思う。

狭義の「フェイクニュース(虚報)」は、ある個人ないしは団体がはじめから虚偽であることを認識した上での故意的な捏造を指すものだが、より広義に捉えれば、「虚偽」とは言えないまでも聴衆のミスリードを誘う偏向的な切り取り報道は多々あるし、あるいは発信者側に一切の過失がなかったとしても、受け手側が「事実」とかけ離れた解釈をすることは決して珍しくない。

SNSの発達した現代社会においては、それらがいとも容易く拡散されてしまう。
フェイクニュースに対するSNS上での人々の振る舞いを観察することは、群衆特有の暗示や感染を客観的に理解するのに役立つだろう。

あるフェイクが拡散されたのちに、それが虚偽であったと訂正するニュースが元のフェイクと同程度まで拡散されることは、ほとんどあり得ない。
なぜなら、群衆にとっては、よりセンセーショナルなニュースの方が「真実」だからだ。

実際に、日々どれほどのフェイクニュースが社会に溢れているかを知るためには、ファクトチェックの普及活動を行う非営利団体であるFIJ(ファクトチェック・イニシアティブ)のサイトを見てみるのがよい。

群衆の不安や恐怖を煽る形で情報やそれに伴う思想が増幅・拡散され、それによって生じるある種の混乱状態、すなわち「インフォデミック」というのは、感染症のパンデミックと併せて危惧すべき現象の一つであろう。

人々がそれに手を染めるとき、そこには一切の罪悪感などはなく、むしろ一種の正義感とか使命感といったようなものに従っているだけである。
群衆に埋没している個人が、その最中に自らそれを認識するのは不可能に近い。
だからこそ、私たちは群衆心理の特性を理解し、常に自分を客観的に制御しなければならないのだ。

群衆がコロナ禍を終息させるとき

フェイクニュースと同様、あらゆる惨事は、単にどれだけ人々の眼をひくか、いかに群衆の想像力を動かすかということによって扱いが変わる
人命や物品の損傷という点において、どれほど深刻で重大であるかということには、群衆は一瞬たりとも頓着しないのである。

例えば、日本人なら誰でも2011年の東日本大震災のことを鮮明に覚えているが、その前年にハイチで起きた大地震のことを覚えている人は少ない。
東日本大震災の10倍以上の死者数とされているにも関わらずだ。

一年の間に交通事故で3,000人以上が亡くなったとか、あるいは新型コロナによってとある海外の国で一日に1,000人以上が亡くなったとか、そういったニュースよりも、日本では、ある一人の人気お笑い芸人の訃報の方が人々の感情に強く作用する。

くれぐれも誤解なされぬよう、決して、群衆が積極的に取り沙汰する惨事は実際にはそれほど大したことではないのだ、と言いたいわけではない。
実態としてはどれほど重大な惨事であったとしても、ある程度定常化して社会に溶け込んでしまっていたり、自分たちと物理的・心理的に距離があったり、あるいは統計的な数値として単純化されていたりすれば、それらが群衆の想像力を強く刺激することはないということだ。

したがって、このコロナ禍についても、ウイルスが根絶されたときなのか、ワクチンや治療薬が開発されたときなのか、あるいは我々がそれに飽きたり疲弊したりしたときなのかは分からないが、いずれにしても、何かしらの理由で人々の想像力をほとんど刺激しなくなったときが群衆にとっての「終息」となるのだろう。

群衆を支配する

さて、群衆に飲み込まれないということも重要だが、群衆を支配するという点についても気になるところであろう。

「支配する」と聞くと、何だか恐ろしく感じるかもしれない。
いや、実際にかのヒトラーも『群衆心理』を愛読していたというから、確かにこれは非常に恐ろしいことなのである。

しかし逆に考えれば、私たちはいとも簡単に無意識の状態で操られる側になりうるということであるから、そのときにどういう手法が用いられるかを知っていないことは、もっと恐ろしいことなのかもしれない。

ここでは、群衆を支配する「言葉」について考えることにする。
重要なのは、誇張し断言し反復すること、そしてロジカルな推論によって何かを証明しようとしないことである。

群衆は、論理・理屈・推理といったものには影響されず、粗悪で幼稚な連想しか理解しない
確かにそういう性質はあるだろうということを我々は経験的に感じてはいるものの、しかし、ロジカルな思考法を身に付けている人ほど、この事実を受け入れるのは非常に辛いことであろう。
もし本当にそうなのだとしたら、群衆を正しく説得し導くことなどは、もはや不可能なのではないかという気もしてしまう。

だがやはり、ごく単純な論理すらも無視した宗教やそれに類する迷信などが、かれこれ2千年も群衆の支持を集めているという事実が、何よりの証拠なのだ。

科学の発展した現代においては、宗教の持つ支配力が弱まっているとの指摘もあるかもしれない。
しかし、それは単に「科学」や「無神教」が新たに信仰の対象に取って代わっただけのことであり、群衆の特性自体にドラスティックな変化が生じていることを意味するものではない。

ブランディング活動への応用

群衆の支配というからには、民衆を前にした演説であったり議会での発言だったりを連想するところではあるが、例えば身近なビジネスのシーンにおいても、社内会議やプレゼン、あるいは営業トークや広告宣伝のメッセージなどからそれを体感する場面は少なくない。

多くの人が認知しているであろう有名サービス「タウンワーク」のCMを例に挙げてみよう。

この15秒の動画に込められている情報は、わずかに「バイトするならタウンワーク」ただそれだけである。
マーケティング担当者はさぞかし強靭な度胸を持っているのだろうと感心せずにはいられないが、群衆を支配するときに重要なポイント――誇張し断言し反復すること、そしてロジカルな推論によって何かを証明しようとしないこと――を忠実に守っていると評価することもできる。

これが例えば、「バイトをするなら基本的にタウンワークがいいと思います。なぜなら求人数も多くて~~」といったように、誇張も断言もせずに長々と語られたとしたらどうだろうか。
こちらの方が正確で情報も豊富なのは明らかだが、にもかかわらず、いざバイトをしようとなった時に想起され、そして行動を促す力を有しているのはやはり前者なのである。

断言は、証拠や論証を伴わない、簡潔なものであればあるほど、ますます威力を持つ。(中略)この断言は、たえず、しかもできるだけ同じ言葉でくりかえされなければ、実際の影響力を持てないのである。

コロナ禍と標語

これまでに繰り返し述べたことを抽象化するに過ぎないのだが、やはり言葉の力というのも、それが喚起する心象如何に関連するのであって、その言葉の持つ意味そのものとは全く無関係である。

例えば、民主主義、社会主義、平等、自由等々のような言葉が、これである。

極めて意味の曖昧な言葉が、極めて大きな影響力を持つことは多々あるし、むしろ漠然としているからこそ群衆の想像力を動かすという風にも捉えられる。
日本でも古くから「言霊」という概念が存在するように、どういうわけか分からないが、その簡潔な音綴に何か「魔術的な」力を宿した言葉や標語というのは確かにあって、それらの前では、道理とか議論などでは一切抵抗することができない

他方、すべての言葉や標語がその力を有しているわけではない。

いったん心象を呼び起こしたのちには、使い古されてしまって、頭のなかにもはや何物をも呼びさまさなくなるものがある。

こういったことを考えると、今まさに非難が殺到しているカタカナ語の数々――オーバーシュート、クラスター、ロックダウン、ソーシャル・ディスタンス等々は、実は非常に理にかなっているのではないかという見方もできる。

「なぜ日本語ではダメなのか」「分かりにくい」「正確に意味が伝わらないために混乱を招く」「そもそも英語としても正しい用法ではない(例:オーバーシュート)」といった批判は、いずれも一定筋が通っている。
しかしながら、「馴染みがなく新鮮な言葉だからこそ」なのかどうかはさておき、ただ群衆を動かすという一点においてが機能しているのであれば、それ以上の議論はもはやナンセンスなのだ。

要するに、少なくとも批判をせずにはいられないほどの嫌悪感を与える程度には群衆に作用する力を有しているということにほかならないわけで、そういう意味では、これらの標語はすでに成功しているといえる。
事実、こうした非難が飛び交うようになって1ヵ月以上が経つ今でも、それらに代替する「分かりやすく」「馴染みのある」日本語の使用の方が優勢になったという例は、一切見られない。

「三密」という標語についても同様であろう。
「三つの『密』って何だっけ?」「えーと、密集と密接と.... 密着?いや、密閉か」というような会話が普通になされるくらいには、意味が伝わりにくい標語である。
SNS上では、「集近閉(しゅうきんぺい)」の方がよっぽど分かりやすいという声もあって、確かにこちらの方が分かりやすくて洒落が利いており、なかなか悪くないようにも思えるのだが、どうしたものか、「三密」の方が人々の心象(イメージ)を即座に呼び起こす力を持っている。

用語を適切に選択し、ときには新たに標語を生み出すというのは、群衆の支配者の最も重大な仕事の一つなのだ。

指導者の威厳

最後に、群衆の指導者が備える「威厳」について触れておくことにしよう。

ある個人や団体、ある事業、ある意見・主義・思想、あるいは前述の標語であったり、または文学的・芸術的作品などが、理屈で説明可能な範疇を超えて人々の心に働きかける一種の魅力こそが「威厳」である。

この魅力が、われわれのあらゆる批判能力を麻痺させて、驚嘆と尊敬の念をもって、我々の心を満たすのである。
威厳こそは、およそ支配権の最も有力な原動力である。威厳なくしては、神々も王者も、女性も威をふるうことができなかったに違いない。

威厳は、大きく後天的威厳人格的威厳とに分けることができる。

後天的威厳は、家名・資産・評判・名声・肩書・外見などといったものによって付与される。
首長や資産家、社長、学校の先生、制服を着た警察官や軍人、高級なスーツを着た裁判官、彼らが一般的に持つ威厳はこれである。
それらの立場や資格やアイテムを取り払ったときには、彼らはその威厳をほとんど失ってしまう。

対して人格的威厳とは、一部の選ばれしものだけが先天的に備えている威厳である。
往々にして後天的威厳も兼ね備えており、それによっていっそう強化されることも少なくないが、およそ肩書や権威などとは無関係に独立して存在できるのが人格的威厳の特徴だ。
いわゆる「天才」とか「カリスマ」と呼ばれる類の人物は、この力をいくらか有しているのであろう。
イエス、マホメット、ジャンヌ・ダルク、ナポレオンのような偉大な指導者たちは、もれなくこのタイプの威厳を高度に備えていた。

威厳を具える人物や観念や事物は、感染によってただちに模倣されて、群衆に対し、ある感じ方と思想のある表現とを強制するのである。
それに、多くの場合、模倣は無意識的なものであり、そして、まさしく無意識的であることが、模倣を完全なものにするのである。

威厳は、常に失敗とともに消え去る――少なくとも後天的威厳についてはそうだろう。

例えば、スキャンダルを暴かれた政治家や芸能人が、直接的には何ら害を被っていないのになぜか怒り狂った人々からバッシングを浴びる様子を、私たちは幾度も見たことがあるはずだ。
かつての威厳が偉大であればあるだけ、その反動も激しくなる

信者たちが、以前崇めていた神々の像を打ち砕くときには、常に熱狂的である。(中略)群衆から賞讃されるには、常に群衆をそばに近づけてはならない。

このコロナ禍においても、国内外の様々な国や地域の長が、それぞれ異なるアプローチで民衆に向き合っているのを観察できる。
結果として被害をどれだけ抑えられているかという評価とは全く別軸で、どれだけ人々の支持を集められているかという視点で、彼らを観察してみるのは面白いかもしれない。

あれほどの感染者・死亡者を許しているにもかかわらず軒並み支持率を挙げている欧州のリーダーがある一方で、数値の上では比較的被害を小さく抑えられている日本の首相の支持率が下がっているのはなぜだろうか。
その要因は、群衆の側の価値観や文化によるものなのか、はたまたリーダー個人の威厳によるものなのか、その考察は各々に委ねたいと思う。


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