日本に新卒一括採用が定着した経緯と今後に関する考察
今回は、先日書評を書かせていただいた『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』を参考にしながら、日本の新卒一括採用の歴史と今後について整理・考察してみたいと思います。
日本型雇用の特徴
欧米ではまず職務(ジョブ)が先にあり、それに即した人を雇うため、基本的には欠員が出たときに都度その補充という形で採用をします。
これに対し日本ではまず先に「人」ありきで、そこに対して職務をあてがうのが普通です。
そのため、職務のパフォーマンスそのものよりも、「人物」や「人柄」、あるいは「努力」とか「頑張り」といったものが評価の対象となりやすいです。
この傾向が一層顕著になるのが、新卒学生の採用です。
日本でも転職が珍しいことではなくなってきた今では、不足している職務・ポジションに対して、必要な経験やスキルを有した即戦力人材を雇い入れることも多いでしょう。
一方で、そういった即戦力となる経験やスキルを持っていない新卒学生を採用する際には、「地頭の良さ」「地道に努力する姿勢」「要領の良さ」「コミュニケーション力」などが特に重視されます。
つまり、範囲が明確に定められていない職務を担う、あるいは、指示された業務だけを忠実に遂行する「ポテンシャル」、そのための適応性や協調性といったものが求められるのです。
卒業前の学生に対し、限られた期間で求人・選考を行い、卒業後すぐに彼らを大量に雇い入れる新卒一括採用は日本特有の雇用慣行であり、海外では一般的ではありません。
十分な経験もないままに卒業後間もなく雇用されることは、学生にとってはありがたいことですが、実戦経験のある即戦力人材を必要に応じて採用する方が、企業からすれば合理的なようにも思えます。
なぜ日本ではこのような採用形態が定着したのでしょうか?
明治日本における役員の採用試験制度
その歴史は、まず官吏(役人)採用の試験制度に遡ります。
日本の官吏の試験任用制度は、1887年に制定された文官試験試補及見習規則から始まりました。
これは、文官試験合格者の中から必要に応じて試補・見習を採用し、
三年間の事務練習期間を経て、試補は奏任官(高等官吏等級の一つ)に、見習は判任官(下級官吏等級の一つ)に正式任用されるというものでした。
これらの制度はプロイセン(ドイツ)を参考にして作られたのですが、
当時のドイツと日本では社会条件にいくつかの違いがあったということに注意しなければなりません。
最大の相違は高等教育を受けた人の数で、19世紀前半のドイツでは大卒者が供給過剰だったのに対し、1886年時点の明治日本では、帝国大学卒者は46名、うち法科大学卒は11名しかいなかったそうです。
試験制度の導入は、情実採用を防止し、能力に基づく任用を確立することが目的だったとされています。
一方で、帝国大学法科・文科卒業生は無試験で試補に採用されるなど優遇されており、実際には、試験を経て任用されるのは特別監督学校(私立学校)の卒業生でした。
そして、いち早く人材不足を解消したかった省庁は、年に一度しかない試験を待たなければならない試験合格者よりも、試験が免除されていて随時採用できる帝国大学卒業生を好んで採用したのです。
結果、試補試験合格者の需要は減り、1891年には帝国大学卒業生で省庁の採用が埋まり、ついには試験そのものが中止になりました。
これでは、一体何のための試験制度だったのか分かりません。
そこで、1893年には無試験特権が廃止され、全員に試験を義務付けるよう制度改正がなされます。
しかし、各省庁は従来通り帝国大学卒業生を採用したいため、優秀な学生を7月の卒業と同時に属官(下級官吏)として採用してしまって、11月の試験まで事実上の休暇を与えて試験準備にあたらせたのです。
これが、事実上の新卒一括採用のスタートだったと言えるでしょう。
新卒一括採用誕生の背景には、行政事務の急拡大に対して、高等教育を受けた優秀な人材が不足していたという事情があったのです。
近代日本では、出自を問わず帝大生になれる可能性があったため、貴族層や富裕層でなくても高級官吏になることができたという点においては、同時代のドイツよりも「平等」だったといえるでしょう。
一方で、帝大を卒業して官吏になってしまえば隔絶された特権階級になれたため、日本における「学歴」が、実質的にヨーロッパにおける「身分」と同様に機能するようになったいうことでもあります。
年功制と定期人事異動
さて、近代日本の官庁は、さらに年功昇進/昇給と定期人事異動という慣行も生み出します。
1885年には官員の数が10万人に達しつつあり、彼らの俸給が国家予算の28%を占める事態となっていました。
俸給費の削減は当時の政府課題となっており、1886年には非正規公務員ともいうべき等外の雇を中心に大規模な行政整理が行われ、官員数は約5万5千まで削減されます。
一方で、前述したように優秀な人材の需要は高まっており、判任官や高等官の数は増加し続けていました。
そこで、同年1886年には高等官官等俸給令が出され、一つの官等に5年以上勤務しなければ、上位の官等に昇進できないよう定められました。
昇進に制限を設けることで、俸給費の増加を抑えようとしたわけです。
この俸給令の規定は、段階的に何度かの変更を経た後、1895年の改正で2年となりました。
これはあくまでも、昇進に必要な最低年限を定めたものでしかありません。
しかし、この年はちょうど新卒一括採用が定着し始めた時期であり、
毎年4月に入ってくる新規採用者に職務を与えるため、その職務にいる者を異動・昇進させる必要が出てきたのだと考えられます。
結果として、当初の意図に反し、文官高等試験合格者らが入省後、2年ごとに部署を異動しながら一つずつ官等を上げていくという慣例が生まれたというわけです。
戦後に高等官官等俸給令は廃止されたものの、1920年まで旧制大学が7月卒業だった名残で、今でも官庁の人事異動は7月に多いようです。
民間企業への拡大
官庁から始まった新卒者採用は、1900年代には財閥系の大企業などで一般化し、第一次世界大戦の好況期には中規模企業にまで広まりました。
当時はやはり高等教育卒業者が少なく、第一次世界大戦の余波で日本が好況を迎えたころには、人材獲得競争が激化します。
一方で、前述したように、省庁が帝国大学生を卒業時に採用し、その後に文官高等試験を受けさせる流れも生まれていました。
そのため帝大生を採用したい民間企業は、彼らが官吏任用への切符を手に入れる前に「予約」する必要があったのです。
こうした状況下で、1920年には高等教育機関の卒業時期が3月に統一され、卒業前年のうちに学生に内定を出して4月1日に一括採用する、という形の新卒一括採用が形成されていきました。
それ以前の時代には、14歳前後で基本的な読み書き能力のある者を、企業が「養成」して戦力とするのが一般的でした。
会計など一部の事務業務に関しては、商業学校出身者を下級職員として採用することはあったようですが、
帝国大学の法科・文科で学んだ知識が役立つ機会は少なく、企業もそれを期待していたとは考えにくいでしょう。
必ずしも即戦力とはならない新卒者を採用しなければならなかった背景には、官庁における昇進年数制限と同様の慣行が、民間にも定着していたということが挙げられます。
昇進/昇給するためには同じ等級で一定年数働く必要があるというような状況では、必然的に転職は不利となり、優秀な人材ほど中途採用市場に流通しにくくなります。
また経済成長期には、企業は成長しますが、その分人材不足も深刻化します。
結果として、長期雇用を前提に教育や福利厚生を充実させて人材を囲い込み、その代わりに育成コストや年功賃金を負担するようになるというのは自然な流れでしょう。
育成は採用後で構わないとなれば、企業が採用前に知りたいのは、一般的な知的能力や「人物」の情報となります。
職務範囲を明確に定める必要もなく、ある程度どんな部署でどんな業務を任されたとしてもこなせる、「勤勉さ」や「適応性」さえあればいいのです。
しかし、人事担当者の数やノウハウも不足している中で採用人数が急増すれば、各候補者の情報を詳細に見極めることは困難です。
そこで企業がはじめに拠り所としたのは、大学の成績でした。
制度的な資格証明が整っていなかった明治期の日本では、応募者のことをよく知る人による「紹介」が果たす役割が大きく、大学もそうした「紹介者」としての役割を求められたのです。
1908年の八幡製鉄所では、商業高校から送られてきた履歴書と成績表だけをチェックして、新卒者と一切接触することなく採用を決めた事例も確認されています。
しかしながら、1920年代に入るころから、成績や紹介よりも、自社による面接などによる「人物」重視の傾向が強くなります。
この背景としては、大正期の教育改革で成績評価が点数ではなく「優良可」などの段階方式になりスクリーニングの精度が落ちたこと、
成績優秀者が必ずしもビジネスの現場でも有能ではないと企業が気付いたこと、
そして、大学令によって私立専門学校が「大学」として認可され、大学と大学卒業生が急増したことなどが挙げられます。
その後も日本の雇用慣習は少しずつ変化をしていきますが、
新卒一括採用については、このあたりでおおよそ現在の形の基礎ができあがってきたと考えてよいでしょう。
新卒採用の今後
こうして日本で新卒一括採用という慣行が定着したわけですが、近年では各社で見直しの動きも見られます。
今回整理したように、社会状況の変化に対応するために制度は作られます。
それに合わせてまた社会は変化し、その「結果」としていったん定着した慣行は、もはやその必然性が無くなった後でも継続性を持ちうることが分かります。
また、最終的にできあがるそれは、必ずしもその当事者らが意図していた形とは限らず、そして意外にも、そこには「国民性」とか「伝統文化」といったようなものが支配する構図はほとんど見られません。
とするならば、(本記事で触れられなかった部分も含めて)あらゆる慣習は互いに絡み合って成立しているという点には留意したうえで、
今、社会状況が大きく変化しつつあるのならば、新卒採用のあり方もやはり根本から見直す必要があるのかもしれません。
さて改めて整理してみると、日本型雇用慣習が形成された背景には、ざっと以下のような状況がありました。
・経済の急速かつ継続的な成長
・省庁および企業の規模拡大
・高等教育を受けた人材の供給不足
・年功制の定着と内部労働市場の発達
では、今の日本社会はどうでしょうか?
全ての業種・業界に当てはまるわけではありませんが、
もはや日本経済の安定成長が見込めない状況で、長期雇用や年功昇給(年数さえ重ねれば昇給する)を維持するのは難しくなるでしょう。
特に、外資の成長企業をも選択肢に含めた転職や、あるいは起業やフリーランス化も選択肢になる優秀な人材ほど、同じ会社で長期的に勤務するケースは減っていきます。
そうなると、採用後に育成コストを負担することを前提とした新卒採用は、縮小する方向へ進むかもしれません。
中途採用同様に都度通年で採用されるようになれば、新卒者は、これまで見られていた一般的な知的能力や「人物」の部分だけでなく、実務である程度戦力になることを示す必要が出てきます。
MBAやその他ビジネスに直結する学位や資格、あるいは、インターンシップや個人で請け負った仕事の経験や成果などを有していないと、卒業後すぐに採用されるのは難しくなるかもしれません。
そうでなければ専門性が低い比較的低賃金の職に就くしかなくなり、若年層のさらなる貧困化も懸念されます。
こういった事情を受けて日本の相対的低学歴化(他の先進国と比べ大学院、特に博士課程への進学率が低いこと)が解消に向かうならば、国際的な競争力を取り戻せるかもしれません。
むしろ、そうならない限り日本経済の停滞は継続すると考えています。
パートナーシップ型雇用とジョブ型雇用
一方、そもそも日本企業がこの数十年停滞し続けている背景には、採用や評価において、職務よりもまず「人」が先にある日本型雇用の特徴が挙げられます。
日本のようなメンバーシップ型では専門領域への特化が進みにくく、現代の高度化・細分化する知識社会に対応できません。
また、若年層に専門職人材が増えても、その専門性に追いつけない上司が彼らを適切にマネジメントすることも評価することもできず、理不尽で非合理的な支配を行うケースも少なくありません。
なぜ日本でジョブ型雇用が一般的であったかを振り返ってみると、これもやはり、新卒一括採用や年功制などと同じ社会背景が影響していたものと考えられます。
したがって、新卒採用のあり方について議論するならば、新卒採用の枠の中だけで議論をしても不十分で、他の日本型雇用の特徴に加え、ジョブ型雇用への転換も争点になるでしょう。
ジョブ型へシフトするためには、欧米では一般的な職務記述書(ジョブディスクリプション)をベースとした採用と評価を行う必要があります。
また、採用担当者も人事部として独立するのではなく、むしろ各部門の一員として機能するような組織の方が適しているのかもしれません。
こうした企業側の体制の変化が一般化し、学生の進学率向上や、あるいは中高年層のリカレント(学びなおし)を促すまでにならなければ、日本経済の再成長は望めないだろうと思います。
もちろんあらゆる点においてジョブ型の方が優れているとも言い難く、
もしジョブ型へ移行するのであれば、その「代償」として雇用の安定は放棄するなど、いくつかのデメリットも併せて合意する必要があります。
いずれにしても、どんなに不合理に見える慣習にも相応の成り立ちがあるということ、そして、他の様々な慣行やルールと互いに影響し合って成立しているということは理解しておく必要があります。
くれぐれも、海外の「良い部分」だけをつまみ食いのようにして取り入れようとする短絡的な発想にならないよう、気を付けなければなりません。
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