いつか遊びがモノをいう

はじめてnoteを書く。社会人になってから今までずっと代理店のプランナーとして裏方仕事をしているため、自分も少しは前に出て表現する人になってみたい(表現する人になってもいいんじゃないか)という気持ちが強くなったからである。

今回は好きなものとそれが自分の人生に与える影響と結果について書きたいと思う。

いきなり昔の話になるが、ぼくは小学生の頃からスニーカーが好きだった。スニーカーは高校生の頃から集め始めて今はかれこれ200足くらい。スニーカーはアートであり、もはや履くものではないとさえ思っているし、眺めながらお酒も飲める。(異論しかないと思う)スニーカーがきっかけで、ヒップホップやそれに紐づくファッションと形成されていったカルチャー、あとはゆるくてのほほんとしている感じのアメリカが好きになった。

ずっと憧れていたアメリカを自分の目で見たいという気持ちと、就職を先延ばしにしたいという気持ちをちょっとだけ携えて、大学を1年間休学してアメリカはアリゾナ州立大学に留学した。アリゾナはカリフォルニア州の右隣に位置していて、夏は気温が40℃にもなる暑い場所だった。アリゾナ州に行くことを決めたのは、寒いのが嫌いで暑い気候のほうが精神衛生上良いと思ったのと、いわゆるLAなど大都市圏は家賃も高く日本人も多いとのことで、生活面を考えてのことだった。

現地の授業は信じられないくらいハードで、毎日勉強に明け暮れる日々だったが、スニーカーのリサーチは欠かさなかった。留学に出発するギリギリまでアルバイトで貯めたお金も、父から送ってもらう仕送りも、スニーカーや服に形を変えて消えていった。アメリカには日本では売られていないモデルも多く存在するのである。ここぞとばかりに近所のモールとECサイトを見回り、長期休みにはロサンゼルスやニューヨークなど遠征してスニーカーショップを訪れてまわった。行く先々にはこわいお兄さんたちがいっぱいいた。少し話が脱線するが、一番印象に残っているのは、ニューヨークのフライトクラブでショップスタッフと間違われたことだ。「Are you workee?」それっぽく映ったのが嬉しかった。

スニーカーが好きで得したことはたくさんあるが、一番は交友関係が増えて友達ができることだと思う。国がどこであれ関係なく人に覚えてもらいやすくなる。こいつすげー数の靴持ってる変なやつだと思われると印象に残る。自分自身、自分の持っている足数なんて上を見たら全然大したことないと思っていても、興味のない人からしたらそこまでお金をかけてスニーカーを集めることは理解できないからだ。留学中に出会った友達とは今も交流がある。

これは自分なりの自己分析でしかないが、スニーカーへの愛は、一年間の留学生活を終え、帰国していざ就職活動をはじめるぞ、というときにも少しだけ役に立った。とりあえず幅広くいろいろな会社に応募してみたのだが(といっても計10社程度で、面接まで行けたのは3社くらいだった)、いろいろと考えてESを書き、面接にも臨んでみても、そこでは当然短期間で頭に浮かんだ付け焼刃的な浅い思考しか持ち合わせていなかったので、落ちた落ちた。振り返っても熱を持った深みのある話なんて一ミリもできていなかったなと思う。

唯一選考が進み内定をもらえたのはファッション系のPR会社だった。スニーカーにまつわるマニアックなネタがウケた。社会人スタートの初っ端から好きなモノ・コトを扱える仕事をできるなんて幸せじゃないかと思い入社を決めた。(その後めちゃめちゃ苦労することになるのだけど)なんだかんだで自分が自信を持って話せることがあると強いなと思った。

前置きが長くなったが、好きなことを好きと言い続け、それをまわりにも伝えていくことができれば、自然とその道に、適した形で導かれて行くのだと思う。単に興味があり遊びがてら自然と身についた知識や経験が、いつか自らの生活をしていくための一部になっていく。いつか遊びがモノをいうのだ。これは2000年代前半にナイキフットボールがキャッチコピーとして打ち出していた言葉を拝借しているのだが、本当にその通りだと今改めて思う。これはただの経験則でしかないが、転職した今の会社でも、面接時に評価してもらえたのはそこの知識や経験だった(はず)。

なんとか自分の行きたい道を諦めずに歩いていると道ができていて、いつの間にか自分のまわりにも友達が増え、誰かから求められるようになる。

自分はなにに興味があって、熱を注ぐことができるのかよく考える。好きなことに向かってなんとかやっていると、いつの間にかそれが生活になっていく。

そんなありきたりの持論と行ったり来たりの話を展開したところで、初noteを終えます。備忘録。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?