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「女性」「男性」というより、ただの「人間」でいたいのに。

わたしは、自分のことを「フェミニスト」だと言うかもしれない。だけど、その意味は、「男も女も関係なく、誰もが自分らしい選択ができる社会を目指す」ものだ。フェミニストという言葉を聞くと、よくない印象を持つ人が未だ多いことが事実だが、そもそも性別関係なく、平等な権利を持つこと、そして誰もが「自分らしく」生きるための運動であることに気が付いている人が、少ないのではないだろうか。
わたしはフェミニズムを、「男らしく」「女らしく」の呪縛から解放されるための、そして性別だけで不当な待遇を受けている人たちの解放を謳う運動であると捉えている。

最近、また嫌なニュースが流れてきている。2021年にもなって、まだこんなことを平然と公に発言してしまうなんて、日本や世界で、多様性の考えがどんどん広まってきたと思っていたのは、小さなわたしの周りの世界だけだったのかと、はっとさせられた。これは、過去の国内外の様々な選挙の結果を見たときと同じ感覚だ。仲良くしている人、仕事関係のつながり、知人、そしてインターネット上で見える発言等、わたしの見えている世界は本当に狭い。多様性に理解があるのも、ジェンダー平等に関心があるのも、性差別をおかしいと思うのも、そもそも発言や行動を性差別だと気が付ける人も、日本や世界の中では実はまだまだ少数なのではないかと、どきりとしたのだ。見えていない意見、見えていない世界が、多く存在していることを、思い出したのだ。ああ、果てしない。そう思った。

そもそもわたしは、「男性」「女性」という枠を取っ払って、ただの「人間」でいたいと思うし、関わる人、出会う人のことを、「人間」として見たい。人はみんな違うのだ。性別関係なく、違うことが当たり前なのだ。だったら、性別なんてフィルターを最初から取り払った方が、楽ではないかと思うからだ。
例えば、ある人は好みの男性に出会ったが、あまりにも「女々しくて」がっかりしたという。だけどそれは、「男性」というステレオタイプに囚われるから、がっかりするのだ。人間としてその人を見たとき、本当にその人はがっかりするような、人だったのだろうか?時に、素敵な人をそんな理由で諦めてしまうことが、もったいないと思ってしまう。

誰もが違うことを認め、誰もが違う価値観を持っていることを理解し、性別や人種など関係なく、そもそも一人の人間だということを思ったら、差別なんて存在しないだろう。同じ日に生まれ、同じ家で育って、同じ学校に行ったって、性格や考えなどが全然違うことだってある(わたしと双子のことである)。ある種の共通項があったとて、「同じだ」なんて言えないのが人間だ。多様性を理解することは、本当にそんなシンプルなことなのだ。
大抵の違いからくる不愉快さは、性別や人種など関係ないことも多い。もし嫌な思いをしたとしたら、それをすぐに「女だから」「外国人だから」で片付けないでほしい。言い訳をつけることは簡単だけど、それを続けていたら、一人のただの人間として他人と付き合うことができるまで、長い長い道のりになってしまう。
自分とまったく違う人と出会うと、びっくりするし、戸惑うこともあるけれど、その違いを面白いと思えたら勝ちなのだ。同じ人間でもこんなにも違うのだと、好奇心をマックスにしてしまえばいいのだ。うまく付き合えないなら、そっとしておけばよくて、無理に付き合う必要もない。だけど、合わないという理由だけで、その人を否定してもいけないのだ。違いを理解し、距離を置くことは、理解することを拒否し、やみくもに否定するよりも、ずっとやさしい選択だと思う。

時に、性別の呪縛に苦しんでいる人がいることを頭におきながら、自分の発する言葉に責任を持つこと。そしてどんな理由でも他人を見下したり、バカにしたりしないこと。これらは、そんなに難しいことだろうか。
バックグラウンド、思想、性別、ナショナリティー、そんなもの以前に、みな人間なのだと、誰もが痛みを感じる、複雑な感情を持つ人間なのだと、「自分にされたら嫌なことは他人にはしない」という、幼い頃に教えられた「当たり前」を、思い出せる人が増えてほしいと、願わずにはいられない。

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