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古書店のすすめ

私は古書店が好きだ。旅先では毎回といって良いほど商店街の一角にある
古書店やチェーン店の古本屋に立ち寄る。雑誌、新書、図録と店内を舐め回す様にみていく、あの時間が好きだ。

でも古書店の魅力って何なんだろう?
古本屋と分けたが、そこの違いについてや良さについてつらつらと実体験を交えつつ綴っていこうと思う。

古書店と古本屋.

私の中でこの2者の違いは明らかである。なおかつ、面倒くさいことに古書店でも二つに分類されている。順に説明したい。

まず、私の中で古本屋というのは「BOOKOFFやゲオ、古市などといったチェーン展開の本屋のこと」を指す。本には何の感情もなく、ただ商品として古くなった書籍を金のために売る。ただそれだけの店だ。罵倒する気はないし、私も古本屋にはだいぶお世話になっている。ただ、性質上そう言った面があるということだ。ここで扱われる本に温もりはない。乱暴な言葉を使えば死んでいるとも言える。

一方で古書店は大概個人経営や大手/チェーンではないところを指す。
東京だと高円寺や神保町、早稲田etcの街の商店街などに大体位置する"それら"は初見だと結構入りにくい。良い言い方をすればこじんまり、悪い言い方をすればチェーンよりもボロかったり、雑多、狭いなどの単語が似合う場合も少なくないだろう。だが、チェーンよりも限定されたその軒に足を踏み入れれば商店街や街と切り離された様な空間。所狭しと本が並び、文字通り本に囲まれた世界がそこにはあるのである。

さっき古書店でも二分されると言った。上記の感覚はいずれの本屋でも味わうことができよう。しかし私は思う。古書店の中でも「本への愛情の有無」度合いで古書店の良さに隔たりが生じることを。

例えば本の置き方。外の日差しをモロに受けた外出しの本は驚きの白さを見せる。人は日焼けると黒くなるが、本は反対に白くなる。人と同じで日焼けのやりすぎは毒だと思う。そこに愛は感じられないし、むしろ古本屋に近い空気感がそこにはある。

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ただ、正直愛情がないと言って必ずしも悪いかと言われればそれも違う。
一般的な本屋と比べたらもはや惰性のその姿でさえも古書店の個性になっているとも言えるし、無造作に建つ本の塔から探す一連の所作に美しさを感じる時ですらあるからだ。

サカナクションの山口一郎が「浴びる音楽より探す音楽」と言っていたが、本に関してもそれは同じことが言えると考えている。あふれる書籍の中から自分の求め得うる本と意図的に出会いにいく。

書籍との邂逅.

愛というと何だか大袈裟であり勝手に背負わせている感が否めないが、それでも多少の本への熱情を感じる瞬間がある。書籍の配置がその1つである。ジャンルや作者ごとに並べることは一般的なことかもしれないが、古書店の場合古本屋ほど整頓はされていない。だからこそ、目的と関連した本が見つかったり、または読みたいジャンルとは全く関係のない本を買ってしまう邂逅がある。

「よぉし、今日は西洋哲学か現代思想に関する本を漁るぞ。」と意気込んでおいて軽率に建築と芸術の本を買ったって良いし、特に目星など決めずに思いがけない出会いを目的に古書店に入るのも良い。

チェーン店程整頓されてはいない、程よいジャンル分けがされているからこそ、より良い邂逅が生まれ、読み切れる位の知らなかった本に出会える。

そして、たまにあるのが欲しかった本他人にお勧めされて自分からは買おうとはしなかったけど買っていなかった本との邂逅。

欲しかった本と出会えた時はドーパミンがブワッと溢れ出すのがわかり、
脳内では「エンダー!イアーー‼︎」(よくあるホイットニーヒューストンの曲)が流れる。他人からお勧めされた本も、必ずしも自分にマッチするかわからないよなと思いつつ、古書店価格なのでとりあえずの購入もできる。

こういう予期せぬ出会いを古書店は出会わせてくれる。この沼にハマったら最後。行く先々で古書店を探してしまうようになっていく。

未分類棚と意図

たまに未分類棚、ジャンルが何!と一見言い切れない棚がある。大体が店先にあるその棚の意図を私はとても観察してしまう。昨日いった代々木上原のロスパペロテスであれば入口正面にある棚。横長の棚にはペストに関する本や哲学書、パラダイムに関する書籍などが並んでいた。少し考えてみればコロナという大きいテーマがあり、それを様々な視点から紐解くのに役立ちそうな本であることがわかる。

この意図性を考えるのも古書店の楽しみ方の一つだと私は思う。代々木周辺の古書店は古書店としての良さを保ちつつ、街の若者カルチャーをわかっていて、店先に芸術やファッション雑誌を置いていることが多い。

若者の活字離れなんて揶揄がされているが、この場に溜まって昔の雑誌を漁り、隣の小説を手に取る光景を見る限り案ずるなと私は言いたくなる。

代々木などの場合はこうやって若者カルチャーを取り込みつつの近くに小説や文庫が近くにあったりするが、他の場所はそうでもなかったりする。それも良い。店内が程よい整頓から予期せぬ出会いを産むのであれば、店の外では全く整頓されていない本からセレンディピティを探そうではないか。その落差に燃えるのである。

古書のおまけ文化

古書には思いがけないおまけがついていることも少なくない。

京都、左京区・出町柳の商店街にある古書店へ訪れた際、ただでさえ重い荷物なのにもかかわらず私は藤田嗣治の図録に惹かれ購入してしまった。通常であれば何千円で購入する物であり、なおかつ藤田の図録はそう簡単に手に入れられる物でもなく欲しかった物でもあった。

ホクホクしながら近くの喫茶店で図録を開けると、そこには藤田の画が描かれたポストカードや展示のチケットやパンフレット、そして元の持ち主が書いたであろう藤田の画の考察が挟み込んであった。

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図録で画を楽しむところの他に他人の考えや観察の跡を知ることができる、そして何よりこの痕から「この図録はどういう旅をしてきたのか」と思いを馳せることができる。本屋で買う本にも価値はあるだろうが、こういった付加価値は古書店ならではではないか。

マーカーやメモといった印も素敵だ。作品や内容に支障がない程度のメモ書きからは視点を得ることができる。これらを無視して一回、それらの意見を取り入れつつ一回読むことで二度愉しい。

私も古書を売りに出す時はそれに関する絵葉書とかメモ入れようかな〜☀︎

おわりに.

昨日行った代々木の古書店でも予期せぬ出会いがあった。元々は代々木周辺を散歩して、夕飯に桉田餃子でも、と思ったが、その日は日曜。わざわざコロナのリスクを冒してまで並んだり人いっぱいの店内には入りたくない。

どうしようかと思っていた矢先の古書店だったのである。腹は減っていたが、上原へ来た目的変更、古書店を回ることにしたのである。

結局私は雑誌2冊を買った。建築家安藤忠雄特集のCasa BRUTUSと藤田嗣治特集の芸術新潮。帰って雑誌を開くといずれもおまけがついてた。

安藤忠雄の方は開くと未開封の安藤のDVD付録がついていた。藤田の方はフランスに渡った日本人芸術家に関する切り抜きが入っていた。


最近はAmazonで中古の本を買うこともできるし、第一外に出ることがリスクだから表立って「すべき」とは言えない。しかし今回書いてきた様な魅力が古書店にはあるのだ。古書店を存続とかそういうかっこいい気持ちも持てれば最高かもしれないが、まず私はカルチャーの1つとして古書店巡りがあっても良いなと思う。自由な本の探索。

あなたなら古書店をどう愉しむだろう。

ごきげんよう。


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