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「小さい頃は可愛かったよね」とかいう呪い


写真を見返した時、幼い頃の私に似た顔つきの子どもをみた時、親戚の集まりで他愛もない昔話に花を咲かせている時。

私はこの言葉をよく浴びていた。

でも実際、依然は何の考えもなくこの言葉を当たり前のように受けていた。

「昔の頃にはもう戻れないし、自分を通して幼い私を懐かしんでくれているのだろうな。」くらいにしか思っていなかった。

しかしある疑問からこの言葉がだんだんとプレッシャーへと変わっていく。「『昔は可愛かった』としたら今は何なんだろう。」

醜くなってしまったのか。可愛げがなくなってしまったのか。成長につれて顔や体型は変わるのは致し方ないのに?「大きくなった」とかはいうのに?

ピークは北海道での親戚の集まりだった。高校受験期以来で久々、懐かしい空気を噛み締めていたなかでその言葉は複数人によって投げかけられる。

「あんなに可愛かった子はどこにいっちゃったんだろうね笑」
「昔と全然違うね〜」

遠回しに「ブス」と嘲笑われてるように感じることによってダメージが心の芯まで及ぶ。苦しい。この言葉たちに対して「いやだ」と言えない自分にもまた嫌悪感を抱く。


「可愛かった」ことを懐かしむのは悪いことではないと思う。そもそも可愛いというのは褒め言葉であるだろうし。ただ、人によってはそれがプレッシャーになることを考えた上でその言葉を発するかどうか判断して欲しい。

少なくとも私にはプレッシャーだし、嫌悪。不快に感じる。

そして、「のに」は逆接の言葉。そのあとには大体前の文と反対のニュアンスが含まれる。なので今回の文脈でいくと「可愛くない」となるんだろう。

話者はそんなことを考えていなくても、言われた側はそのようなニュアンスで受け取ってしまうこともある。



それに、そもそもの話「別にお前らのために可愛くしてねえよ」
と声を大にしていいたい。彼彼女たちは愛でているつもりなんだろうけど、小さい頃なんて別にそんなこと言われても嬉しくなかった、というかそもそも関心がなく反応に困ったのをすごく覚えている。(謙遜も違うだろうし)

海外ではよほど親密な関係にならない限り、容姿について何か言うのは良くないこととされている。

それに、食べログやレビューでもないのに何を勘違いして人にものを言っているのだろう。似非評論家の言うことなど何一つ信じたくなくなる。

思春期やそうした頃に浴びるこういう類の呪いはその人の自己肯定感にまで影響していく。言葉はやがてコンプレックスに変化し、その人を生涯にわたって苦しめる。「そんな気はなかった」「何も大袈裟に捉えなくても」

日常的なそういった軽率な相手の“評価”によって、人は自己を保てなくなってしまう。強迫観念のもとにストレスを感じ、自らを作らざるを得ない。


そんなつもりがなければいいのだろうか。
冗談で済む話なのだろうか。


いじめや無意識な差別・偏見などにも同じような特徴が見受けられる。
「これを発したら/行ったら相手はどういう捉え方をするだろうか」。
そういった意識の欠如の結果ではないか。

言葉の力を見縊ってはならない。
言葉はときに凶器となり、精神を蝕むのだから。

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