生きながら喰われた話

青梅の秋川に出かけた。


周辺は鮎釣りを楽しむ家族や友人連れでにぎわう中
うちは発熱中の子どもと
看病疲れのわたしと
前日のバイク旅行から帰り満ち満ちた夫と、3人で
この太陽とコンクリートと乾きすぎた熱風から遠い時間を過ごした。


ここにたどり着くまでに
ここ数か月でもかなり大きな核弾頭が落ちた。


近場にある小さな川で
足を浸したいと思っていた身体の熱い息子は
長時間の運転に耐え切れず
わたしは蓋をして誤魔化す作業を繰り返した。


その作業にも、この2日にもホトホト疲れ果てていた。


前日の夜中には半分以上眠った脳をひっさげて
寝ている夫の横を何度も横断し
氷のうに氷を詰めた。


何年も前に経験した「正念場」を、またやり過ごしたわたしは
ぐでんと地に落ちたハンカチの一片を持ち上げる夫のスタミナに
目と耳がついてんのかと憤った。


言い分を汲んでくれないとふて腐る夫に

もう着いていけない!降りる!

と、御岳山駅でバスタオルをもって息子と車を降りた。


走り去る車の後姿をみて
もう二度と見れなくても仕方がないとおもった。


用意したエビデンスは使われなくても、まずは踏む。


かれが、どうでもいい「周り」の盾を使うのなら、
クリティカルな「周り」しかわたしに踏む場所はない。


氷と濡らしたタオルで休む息子と木陰に座って
傍観者の心づもりを、
後々なにかのボタンになるとわかって取る。


と、そんなさなかに息子が、「パパ!!」と叫んだ。


そうか わたしたち また会えたんだ。


目の前で踏まれた現実を、素直に踏む自分自身を感じながら、わたしたちは先ほどの場所へとたどり着いた。


息子は夫と川の中で過ごし
川辺のあたたかな石の上ですこし寝た。


わたしは、苔に包まれた石の上を慎重に踏み、水に足元を浸した。

するとみるみる内に小さな小魚が足に群がり、ついばみ始める。
浮いた角質を食べているのか?
小さな体の小魚の中、群がるのはメダカのように細いものが多い。
どんな風に見えているの?
白く、苔よりも光って見える肌の、目新しさに寄ってきているようだった。好奇心旺盛な幼い小魚がついばんだ後は、すべすべになっていた。


下流を見ると多くの人が釣りを楽しんでいる。


この幼い命があの網の中に納められた大人になれるかはわからないけど
普段苔を食べる小魚が異質なたんぱく質を取る様子は、とても奇妙で不自然で
だけど自然な姿に見えた。


食べられるなら食べる。


死ななければ土になれないと思い込んでいたわたしに
生きながら輪廻する命の中に飛び込んでいることを
小魚の貪欲さと好奇心が伝えていた。


この中の大多数は大人にならずに喰われて死ぬ。
大人になった何割かは喰われるために捕まり
喰った者は、いつもいつかの死に向かう。

たかが、イチたんぱく質である。
そのなかにどれだけの物語を内包しているのか。


風の吹き方が変わると
流れてくる水の上層が温度がすぐに変わる。

その自然の物語は
こんな毎日が崖っぷちの自分を
語っているかのようだった。


そのあとくら寿司でしこたま食べ、今朝、息子は元気になっていた。


昨日なんてもう忘れ去った3人は
また各々の今日を 蝉が鳴く少し前に 始めている。