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ヤカラ先生は怖いんですけど良い人なんです。

わたしは自分の中にヤクザな男を飼いならしている。
あのヤカラ先生について考えてみた。ここは本当に紙一重の世界なので、狂気に巻き込まれてしまいそうでしたら、どうぞここからお戻りください。
まだ間に合います。ここに、わたしの世界への境界線を引いておきます。


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あのヤカラ先生とわたしは、同居している。どちらが前に出るのかどこかで境界線を争っているところがあって、わたしはそれを許している。出入り自由の現実への合いカギを共有している。
彼が暴れまわったハチャメチャな後処理に追われる弊害もあるが、その足跡が嫌いではない。それも自分の生きざまの一つ。ようやくTPOに合わせて「シャベルナ、キケン」「ダメ、オシャベリ、ゼッタイ」のルールを少しうまく適応できるようになり、現実の弊害が小さくなるにつれて、その同居を飼いならすと呼ぶ現象が、自分の中に生まれた。

この精神世界の抽象化があまりにリアルすぎるのか、そんな話を誰かにすると、途端にさあっと引き潮のごとく溝が生まれるので、極力話すことはない。けど、この物語はわたしにとって見えないリアルそのもの。彼はまごうことなくわたし自身で、このわたしの根源的な存在なのだ。

この抽象化の力は、世間では中二病と呼ばれるかもしれない。
現実への弊害が出た時点で、世間様から病名をたまわる。その弊害たるや散々なもので、その渦中の闇の大きさは戦禍に等しいとすら感じる。そんなもの怖くて当たり前だ。自分との戦争なのだから。正気という陣地取り合戦なのだ。

中二病というメンヘラ然としたその呼び名の外枠には、おおよそ人々の本質への恐れが体現されていると睨んでいて、逆に言えば多かれ少なかれこの現象は人類の共通体験であることの証なのだとホッとする。凡庸性を帯びたその言葉が存在するということに、少なからない安堵と確信を得ている。


自分のほんとうの姿ほど、怖いもんなんてないやね。

わたしの世界に抱く恐れが小さくなることを、わたしは生きやすさと呼ぶ。
この世界は極小の部屋に張りぼての壁紙が飾られていて、それを引きはがし壁を壊すことを自己理解というのだと解釈している。
それはわたしの生きざまが生んだストーリーであり、じぶんで得た表現。色眼鏡ともいう。それを進化させ使いつづけることは、わたしにとって現実を生きることそのものだ。

常に1分1秒がリアルなファンタジーという、正気。

とは言え、本当のわたしは、ファンタジーなんて生きてはいない。逆もまた真で、その逆も真も平行線ではない。それは一本の黒々とした太い塗り線なのだ。三原色はその性質を変えるだけで黒にも白にもなる。満月と絵の具はそんな風に真実を話しかける。

わたしの現実は性や親や仕事や家族にまみれ、こんなにも泥臭いのに、同時にすべてが妄想でもある。それらの自覚のお陰で、自分が好きに生きられることを手放しに悦べる。納税や国民の義務だって果たしている。法的にもこの自由はお墨付きである。引き換えに、わたしは狂気という自由を手に入れている。

なんと素晴らしい世界だろう。まさにこの世はファンタジーに溢れ正気の沙汰とはおもえない。
幸福なんてもの存在しないし、本当に在るのは、この体だけなんだ。神秘という言葉に畏怖と、カモフラージュという2つの意味があるように。真実こそ、物語の力で隠される。
それを何と表現したいいのかわからない。シンプルに言えば、わたしは心の底から人間が好きだ。人が好きなのだ。

マイノリティが怖いんです。
その言葉へ沸きたつ親愛と憤怒は、わたしという愛しいアイデンティティ。
さあ、刃物の向きを変えてごらん。
そっと柄に手を添え、その向きを変える。
それはあなたへの言葉である。
わたしのための言葉である。

さてと、子どもとの約束の時間がきた。
その前にスタバで話題のフラペチーノを飲もうかな。