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クッションで寝たいので寝ます!

わたしの周りの人はひとりもわたしの言うことを聞かない人ばかりで、それにとても苛立つこともある反面、そのことに、ひどく救われている。

とある人とお仕事をさせていただいていて、その人には仕事を貰うだけでなく、それを通じて今大事なことを教わっている。
わたしは彼女の掌の上で よく踊る。その事実は心地よく、誠に有難い人だと心底感じる。

彼女のインスピレーションを現実化することがわたしの役割で、わたしは彼女の日本語をどうにかして理解するべく、ここ数ヶ月で様々な領域のことを学び自分の世界に言葉を増やした。
ここで言う言葉とは、体感や経験のこと。体感と言葉、見えない世界と見える世界の2つを知る作業は、自分の壁をぶち壊すことでもあった。楽しくて堪らない。それは自分の価値観と、生き様を認知する行為だった。

ずっと、本当は自分をひっくり返して、中のものを全部放ってしまいたかった。それが叶い続けている日々は、今も、多分これからもわたしの財産になる確信がある。微々たる段差の登りであっても、揺らされて登ったということが、とてつもない奇跡なんじゃないかとおもっている。


彼女とのやり取りの最中、ヤカラ先生は頻繁に出現し、彼女はそれを喜んでくれる。申し訳なくも残念ながら、このヤカラ先生は黙って見逃すことはしないし、とても執念深く、目敏い。言葉は、よく叩かれた薄い鋼のように はためく。
その鈍い光を いつもどこかで覚悟しながら わたしは振るのだけど、彼女は喜んで光を受け、広がる波紋を楽しんでくれる。そのたびに、わたしは彼女への信頼を積み上げている。

そのわたしに彼女は「今まで色んな人から匙を投げられてしまった」と笑って言った。
「わからなくもないですが、でも、仕方ないじゃないですか。だってじぶんに合わない方法なんて、選びたくないんですよね?」
「あなたって珍しいよね。人をそこまで許せるのは、半分無償の愛がある証よ」
「許してる訳じゃないんだけど、誰も言うこと聞かないから仕方ないんです。わたしの周りの人」
「その勝手な人たちを、全て自分の中に入れてしまえるのは、あなたの良いところじゃない」

そうか、そんな事してたのか。
無償の愛が半分あったのか。
愛は折半もできるのか。
なんたる深みだろう。全然実感がないし、難しすぎてわからない。


親も 子どもも 夫も、誰もわたしの言う事を聞かない。でもそれが、わたしは心地いい。

わたしは過去に、同い年の女の子の命のロウソクが消えないよう、奔走した時期があった。それがきっと今も影響しているのだとおもう。あのロウソクの炎は消えてしまった。本人が水をかけてしまった。

その出来事をグリーフと言うのだと知ったのは、ここ数ヶ月のことで、じつに17年以上、わたしは消えたロウソクを大事に握り締めてきてしまった。

あのとき、人の人生に誰も責任なぞ負えないと心底思った。わたしは、依存されたり、唯一だと頼られたり、選択を委ねられることから徹底して逃げたいと思っている。そらもう、めいいっぱい逃走する。

あなたが選んでください。あなたの手で。
わたしは、負わないです。できません。

泣こうが喚こうが、死ぬと叫ぼうがなんだろうが、もうそのスタンスは崩れない。
その人の、その結果が散々であれば共に泣くし、腹が立つ出来事には共に怒る。寒くて動けないならハグして、ご飯を共に食べる。見送る事さえも、いつもどこかで覚悟している。

そうなれば、またきっとわたしは泣くし
どうにもならなくなるけど、
それさえ、その人らしさだとおもう。
人付き合いは 生臭くて普通じゃん、って思うのだ。

わたしの付き合うよは、
何とか助けてあげるよじゃなく、
とりあえず一緒にいようかなのだ。

そんな軽々しいわたしなのに、それを喜ぶ人ばかりでもないのに、人との巡り合わせとは不思議なものだなと、彼女と話すとおもう。きっと人との縁にはツイてる方なんだろうな。



いいんです。わたしはこれで。
わたしはこの一風変わったじぶんのクッションが、かなり気に入っていて、もう他のところでは眠れない。
たまに部屋を訪れる来客用のクッションに座ったり、部屋の外のクッションに座ったりもするけど、やっぱり自分のクッションが恋しくなる。
昔は、自分のクッションだけで寝てるなんてダメなんじゃないかと思っては、外を出歩いてクッションをウィンドウショッピングしたけど、結局ここに帰ってきてしまった。

色眼鏡でもって、このクッションの色がどうとか、形がどうとか言う人がいたとしても、いつかその人は風に乗って流されていく。
わたしがクッションに包まれて昼寝をしている間に、景色はどんどん美しさを増す。何にもないなんてことない。そこにあるものをわたしは愛でていたい。
両手に持てないものを、もうほとんど、欲しいと思っていないの。