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読書感想文を書くのが嫌いだった

きっとふつうに生きていれば人生についての感想文を書くことはない。
ふつうに生きるってどんなことなのか想像もつかないしぜんぜんわからないけれど、多くの人はいろんなことを考えながら生きていたとしてもそれをわざわざ書いておくことはないんじゃないのかと思う一方でそんなこともないのかもしれないとも思う。
自分が想像もつかないようなことを経験しながら平然と日々の生活を送って話しかけてきた人に笑いかけてきちんとコミュニケーションをとって誰かのために自分を差し出せる人のほうが多い。でも自分はきっとそうじゃないかもしれないと不安になる。そうじゃないかもしれない自分をきちんとわかっておきたいから感想文を書く。

秋なのに暑くて朝晩は寒いのに太陽の光のもとを歩いていると汗をかく。汗を書くと書いてみてそれがどこにいくのか分かったつもりになる。意識、意志、意図、全部噓みたいに見える。
自分の意志とは関係なく大事な人のものであろうと赤の他人のものであろうと尊敬する作家のものであろうと人生は続いていく。何を考えて生きてるんだろうなと気になる人がいたとしても、その人が考えていることはこっちが考えていることの一万分の一くらいしかわからない。だから「きっと大丈夫だから、大げさに考えすぎないことにしたんだ」とからっと笑いながら僕に向かって言えたりする。

麻酔が効いていて身体が動かせず目も開いていない、管につながれた父親を目にしてまず自分がしようと思ったことは、入院中暇なときに好きな本が読めたらせめて少しはいい気分で過ごせるかなといったことで、帰り道に寄った本屋で『自動車の世界史』という新書を一冊買った。
もう買ったかもしれないなと思いながら、もしそうならまるで興味はないけれど自分が読んでから古本屋に売りに行けばいいかと思った。
何もかもわからないままでも人は誰かのことを考えながら生きていると実感する反面、何もわからないならもう何もしなくても変わらない気もする。大切なのは誰かのことを考えている自分に気づくことだと思う。

古本屋に売る予定の本がかなり大きな山になってきていて、どこか知らない国のスラムに建材と建材を素人が繋ぎあわせてつくったみたいな巨大な住居を思い起こさせるような形をしている。
本棚を整理するといろんなことを思い出す。どの本も買ったときのことを正確とまでは言わないけれどだいたい覚えている。そういう本しか買わないし買った本のことについてはそれなりに自信がある。だから本棚の整理は一種の自傷行為かもしれないと思って「かわいそうな自分」と自嘲気味に笑ってその考えをぐしゃぐしゃにしてなかったことにした。
最近読んだ本の記録をつけている。忘れていくものに時間を使うことに意味がないように思えたのがきっかけで、なんでも記録しておけばいいのかと言われればそれはそれで疑問だけれど、あれ、この感覚はまえにもあったな、とふと思ったときにそのきっかけが何だったのかわかるほうが素直に生きていける気がした。
思い出?記憶?がつまっているだけの本棚としか向き合えていない。そうじゃない本棚があるなら、それが今はとてもほしい。

「思い出をその記憶と分かつものは何もない。そしてそれがどちらであれ、それが理解されるのは、常に後になってからの事でしかない。」
記憶はだんだん薄れて、きっと今日のことも一週間前のことも二か月前のことも最後に顔を見たこともどんどん忘れていってそれは何かの呪いみたいだけれど、思考は記憶が薄れていくのと反比例するみたいに深まって頭蓋骨の裏側にこびりついていく。
だからきっと僕は僕自身のために葬式をやらなきゃいけないのかもしれない。思考がこびりついた頭蓋骨がばらばらになるまでしっかり焼いてその骨を拾ってやらなきゃならないのかもしれない。こぢんまりした誰も参列者のいない、弔う人だけが肥大化したうつろなホールでやった祖父の葬式のことを思い出す。

自分のことばは引用ではない。引用だけして生きていくこともできるかもしれないけれど、自分のことばが全部引用だったら人生は誰のものになるんだろうか。
誰かを真似して、どこかの物語に救いを求めて、自分の人生がおとぎ話みたいな何かで、それにあてはめたら救われるのかもしれないと思うといろんなことがうまくいく気がしてくる。
あくまでもそんな気がするだけで、何もうまくいっているわけじゃないし、そうやって自分の状況をどこかに委託して意味付けしていくことでしか実感できないものばかりため込んでいくのならきっともうその行為自体にあんまり意味はなくて自分の生きている時間はどんどん薄まっていく一方だ。

最近は月の光も朝の風も変に湿気て濡れたアスファルトのにおいが心地よい夜も僕の部屋に窓から入ってくるようなことはない。
入ってくるなら入っておいでと招き入れようとするも、ここに入ってくることにはよくない意味があるとわかっているんだろう。光だって風だって夜だって、そんなふうに勝手に意味付けするために使われるんなら自由に部屋に入ることをためらいもするだろうというのもなんとなくわかる。自分が風だったらそう思う。
感傷に浸っている自分が嫌いになった。
そうやって誰からも相手にされず誰も自分と関わっていないことをことさらに強調して「さびしくて孤独でうまく生きられない自分」を誰かが認めてくれるとわかった時点からそうやっていびつな形で他者を求めて満足することばかり結局は考えている。みじめだなと思う。
かなしいと思ったとき、かなしんでいる自分に満足して前に進んでいくなんていくらなんでもひどすぎる。ずっとかなしいままなら進まなくていい。かなしさを忘れるんだったらそれを覚えておいたほうがいい。その悲しみを一生背負って生きればいい。
強い人も弱い人もいなくて、強いふりができる人とそうじゃない人がいるだけで、みんなそんなに変わらない。変化もないし違いもない。これを言ったのは誰だったか、また引用している。

風邪をひいたときのことを思い出す。その風邪のせいで休んだ日に使った有給休暇はきちんと僕に支給されたもので、今日半日出張でそのまま家路についたときにそれらの風邪のために使われた有給休暇たちのことを想った。
たとえば僕に風邪をうつされて使わなきゃならなくなった有給休暇のせいでもう使える有給休暇は遠くへ誰かと駆け落ちしてしまって明日は祝日だというのに出勤しなきゃいけなくなった人がいたとしたらたぶん僕のことを恨むだろうなと思う。かなり全身全霊で恨むだろうなという不思議な感覚が自然と意識に浮かび上がってくる。

休みの日に部屋でぼうっとしていると手紙に書いたことが現実になればいいなと思って手紙を書くべきかもしれないと思う。誰かに手紙を書くたびに書いたことを忘れていくのが嫌で、ある時手紙を書く前に下書きをデータにして残しておくことにしてから、あの時自分はこんなことを誰かに思っていたんだなと後からわかることがよくある。それは記憶でなく記録で、単なる感傷ではなく自分の意味を決める材料になる。人生における感想文なんてそんな程度のもので、またそれそのものの存在もきっと忘れられていく。自分の意味を決めてもそれは決めると同時に失われていくものであっていい。そう言い聞かせながら何かが手から零れ落ちて失われていくのを眺めている。

小説をたくさん読んで映画をたくさん観ていると、どの作品の登場人物もいとも簡単に誰かと関係を結び、好かれたり好いたり嫌ったり嫌われたりしながら生きていくことが平然と行われている事実に驚くことがある。
そんなふうにうまくいくことのほうが実際に生活と格闘しながら過ごしていると稀なことみたいに感じることがある。誰にも見られない生活を想像する力みたいなものが自分には足りないのかもしれない。ずっとしんどいままなのにこれから先のことなんて考えられないから。だからそうやって平然と書かれたものが小説として、評論として、エッセイとして世の中に出回ってくるのかもしれない。

本を世の中に出して、それを誰かに届けることはいいことだと思う。けれど、あまりにも生きていることに一生懸命だとそうやって世に出された文章をわざわざ摂取しなくても十分だという人がいるだろう。誰もがきれいに写真のなかに収まるような思い出をたくさん抱えて生きているわけではないだろうし、だったら台所に立つことのほうが大事なことのように思える。

最近ずっとどこにも行かず、気晴らしみたいにゲームに没頭したり、半日カフェの同じ席で何杯もコーヒーを飲んで4冊くらい本を読んだり、ずっとカセットテープに取った当たり障りのないプレイリストをA面、B面、A面、B面…と繰り返して聞き続けたり、そうやって過ごしていたら精神的な筋肉が衰えたように思う。
誰かと話そうとしても空回りするし、自分が用意したことばはどこにも行かずに空を切る。空所補充は得意でも自分で作文できない。空は青くて広いけれどそこに飛び出していったものたちを回収するのは、鳥や雲や国と国の間を飛び回る飛行機が多すぎて、そしてそれらがたまたま空に浮いているのが目に入るとなぜかいいものを見たような気がして、集中することができずに難しい。

でもやっと台所に立つことができるようになった。自分のために自分でつくる料理はある種の諦めを思い起こさせる。

駐車場に出て煙草を吸うときに遠く西のほうに沈もうとしている月がよく見えて、その光のおかげで、光にはここで登場させるのが申し訳ないとは思うけれど、少し離れたところにある団地の建物がよく見えることに最近気づいた。駐車場へ出ていく時間によって窓から漏れる家庭の明かりの場所が毎回少しずつ変わって、それが何かを表しているとか考える以前にそこに生きている人がたくさんいてみんな別々のことを考えながら同じ建物の中で生活しているんだなとぼんやり考えて煙草の煙が目に入る。
最近よく知らないうちに涙が流れてきていることに気づく。まるで『ニムロッド』みたいだなと思うけれどやっぱりそれは感情とセットになって流れてきているものではなくて本当にただ単に瞳から水分が不要なものとして出てきたみたいに流れている。小説にはそんなこと書いていない。だから小説を読むんだけれど。

自分の人生を総括するんならきっと誰かのために生きた、とみんな総括したいだろう。僕は今けっこう自由で、人っ子一人いない森の中にいるみたいだとこたつの中でキーボードを叩きながら考えるのも自由だし、深い海の底にある図書館に向かうクジラになってせっかくなら閉架から好きな本を持ち出そうと考えることも自由だ。生活することは輪を回すことで、その途中で何を考えても構わない。だからあえて考えずに生きていても構わない。そしてきっと誰もそんなふうに何を考えて生きていようが自由だなんてことを考えて生きたりしない。

つらそうにしている人を見かけると声をかけようと思うけれどうまくその人をそのつらさからすくいあげることができるかどうか自信がなくて結局声をかけずに終わることがよくある。
きっと僕にもよくあることなのだから僕の周りにいる人たちもそうなんだろうと思う。でも人間、少なくとも僕という人間、は馬鹿なので自分がすくいあげられていないことに早合点して自分の周りにあるものの色を勝手に塗り替えていく。キャンバスに絵を描く人のことは尊敬しているし、そういう人たちが楽しそうにしていたりいろんなことに悩んだりしている風景を眺めているのが好きだ。だから美術館に行ってぼんやり絵の前に座っている時間が波が揺らめているのを眺めている時間と同じくらい好きだ。おそらくこの「好き」もいつか忘れる。自分の周りにあるものの色を勝手に塗り替えていることも忘れる。

たとえば戦争とは燃え盛る老舗ホテルである。諦めることは自分の再デザインである。来世はあなたのギターになるのが夢であればそれはきっと叶う。かなしみとは冷凍庫の奥にしまわれたアイスで、夜に眺めた雲が消えていく瞬間を重ねるとそれは次の日の雨になる。要は想像力の問題だ。

なんでもいい、想像力ばかり働かせているここ最近の自分をちゃんと褒めてやりつつ「もういいんだよ」と言ってやりたい、そうやって「もういいんだよ」ということが実感できる空間に放り込んでやりたい。でもそうはいかない。自分が決めたことのせいで誰かが傷ついたり何かを信じられなくなったりすることはもう想像するのをやめることよりもきっとつらい。
誰かのために生きるとしたら家族のために生きるほうがいいんだろうなと思って今いる自分の家族を大切にしている。きっとある人から見ればそれはみじめなことなんだろう。
それと同時に自分に家族がいたらいいなと思う。ほしいだなんて思って家族を得て満足するであろう自分が少しだけ嫌になる。だから家族じゃなくても少しでいいから信頼できる人が自分の周りにいたらいいな。そしてもういることにはっと気づいた。
『まともじゃないのは君も一緒』という映画のタイトルに少しだけ救われた気持ちになる。

人生についての感想文を書くことはふつうに生きていたらほとんどないのかもしれないし、ましてやその感想文にタイトルをつけることもきっとほとんどないんだろう。そもそも感想文にタイトルをつけるかつけないかという問題が微妙なライン上にある。
好きな本屋の名前に「title」があって、タイトルをつけることは概要を捉えることだと習ったことを思い出す。
思い出しては忘れて考えては回り込んでずっと踊っている。

ストーカーだって夢をみる。高校生なら恋をする。教師だって煙草を吸う。タイトルがなくても文章自体には意味がある。だからこれが発見されることをずっと待っている。

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