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【小説】喪服の女

私の地元では珍しく、猛暑日が続いた。
何日目かの猛暑日、私は急いでいた。急いで自転車を漕いでいた。
汗は吹き出て、ハンドルに伸ばした両腕は鉄板の上のステーキ肉のごとくじりじり焼ける感じがした。

バイト先への近道、少しせまい路地に入る。あと5分くらいで着く。これは間に合う。汗だくでバイトの制服着るのはあれだけど、ボディシートあるからいっか。バイト終わったら彼氏の家にお泊りだし、シャワー貸してもらえるし。


色々考えて自転車に乗っていたのに、なんだかその人は目についた。カンカン照りの猛暑日の昼下がり、反対側の歩道を歩く喪服の女。多分私よりちょっと年上。ショートカット。眩しいのか暑いのか、かなり怪訝な顔をしている。そりゃそうだ、こんな暑い日に厚手の黒い服なんて着るもんじゃない。怪訝な顔に加えてかなり早足で、ヒールをガツガツとコンクリートの歩道にぶつけている。服は哀しいのに、その人は多分怒っていた。

その人を横目に見ながら、私はバイトへ急いだ。





バイトが終わる頃には、これから彼氏の家に行くことしか考えてなかった。
まずはシャワーを借りて、ネトフリを一緒に見ようか、なにかゲームを一緒にしようか。あ、あいつならきっと洗濯物がたまってるに違いない。洗濯してやるか…

合鍵で扉を開けると、いつもの部屋だったけど、知らない家に来たみたいな錯覚が起きた。あまりに静かすぎる。おじゃまするよー、と、いつも言わないことを言ってしまう静かさだった。
リビングには、何も映っていないテレビを視聴する彼氏がいた。
どしたの、と声をかけてもこちらを見ない。不意に床に目をやると、きれいに畳まれた私の部屋着と、私が使っていた歯ブラシ、化粧水、クレンジング、美容液。


「なにこれ」

「明日彼女の親に会うことになって」

「…は?」

「さすがに俺も腹くくんないとと思ってさ」

「なに、いってんの」

「もう今までみたいにはできない」

「それで?」

「ごめん」

多分、ごめん、に私はキレたと思う。ごめん、のあと、喚き散らしたと思う。あんまり覚えてないけど。多分、二番目の女でもいいって言ったのは私だけど、とか、もし結婚したとしてもお前なんかすぐ不倫するんだ、とか、お前なんか幸せになれるはずない、とか、精一杯傷つける言葉を吐いた気がする。合鍵も投げた気がする。あんまり覚えてない。とりあえず、あいつが私の目を一切見なかったことだけ覚えている。遠距離恋愛中に近場に女作ったのはどこのどいつだよ。そんな男にまんまと惚れたのは、どこのどいつだよ。

帰りは自転車を漕ぐ気になれなくて、ゆっくり押して歩いた。家についてしまったら、本当に一人ぼっちになってしまう。化粧水、新しいの開けたばっかだったのに、置いてきたのはもったいなかったかな。でもあんな部屋着もう着れないし。

あのせまい路地に来た。反対側の歩道に誰もいなかった。
そもそも私達はなにも始まってない関係だった。思い返せば、好きとも、付き合おうとも言ってない。ただなんとなく一緒にいて、なんとなく家に行くようになって、それでも私の存在を感じて欲しくて色々置いていった。

不意に顔を上げて、昼間の喪服の女の人を思い出した。あの人、顔は怒っていたけど、きっと誰かを失ったところだったんだ。あの人は、その誰かとはもう二度と会えないのだ。みんなそれなりに悲しみを背負って生きているのだ。

あぁ、昼間だったら、喪服だったら、暑くてイライラできたのに。
月は、マンションの陰になって見えなかった。





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