太陽みたいな祖母のこと~「私が若い頃は、ずっと戦争だったから」
膵臓癌で亡くなった父は、父の母、私にとっては祖母、が大好きでした。
父が入院まなしにわたしに送ってきたメッセージには、「みんなで将来天国行ったら、おばあちゃんを中心に暮らそう。元気だし楽観的だし楽しいよ」と。
95歳で亡くなる直前まで、廊下をパタパタ走り、1人で裏山にたけのこを掘りに行き、早口でケラケラよく笑い、強くて、太陽のような人でした。
祖母のことを思い出す詩を見つけた「わたしが一番きれいだったとき」
今朝、妹の本棚に、茨木のり子さんの詩集を発見して、ぱらぱらめくっていたら、そんな祖母のことを思い出す詩を見つけました。
戦火に追われた30代を生きた祖母のこと
祖母は、1912年生まれ。
女学校を卒業し、第二次世界大戦が勃発するまで、東京の丸ビルでイギリスの会社で社長秘書をしていました。
「何してたの?」と聞くと、「当時は女学校で習ったから英語ができて、通訳をしたり、タイプライターで文書を作ったりしてたのよ~!今では全部忘れちゃったけど!」と。
東京大空襲で、家を焼かれ、2歳の父をおぶって、東京の蒲田から神奈川の秦野の祖父の実家まで歩いたそうです。
「そうよー、私が若い頃は、ずっと戦争だったから」と、さらりと笑顔で話してくれました。
2歳の時に第一次世界大戦、25歳の時に日中戦争がはじまり、33歳の時に終戦。
横浜生まれ横浜育ちで、大手町でハイヒールで仕事をしていた祖母にとって、突然の田舎暮らしは、苦労も多かったはず。
田舎とはいえ、農家ではなかったので、食べ物もなく、まさに貧困生活をよぎなくされました。(食べ物だけでなく、命からがら身一つで東京から逃げてきたため、当然、金もなかった)
そのせいで、わたしの父は、切り干し大根やひじきは、「幼い頃の貧困を思い出すから、絶対に食べたくない」と、一切口にしませんでした。
そんな中、祖母は、誰も知る人がいない新しい環境で、一念発起して、近所の主婦たちを集め、「梅の実会」という会を結成しました。
「これからの時代には、英語が必要よ」と、英語を教えたりしてたそうです。
(その時祖母が作った、手書きで、「オートマチック:自動的、機械的」などと書かれたテキストを見せてもらいました。)
「信じられないわよねー。おばあちゃん、もう英語なんて全部忘れちゃったけど!あははは」と、楽し気に笑ってた祖母。
ほがらかでもあったけれど、ものすごく勝気で、親戚のおばちゃんとホウキ持って喧嘩した、というエピソードもあり。
祖母のように、30代を戦争、戦後の激しい貧困生活で過ごさざるを得なかったとして、私は、彼女のように、すべてを受け入れ、常に前向きで、愚痴なく、笑って生きられるのだろうか。
と思うと同時に、心から、私は恵まれた時代と環境のもとで暮らしていることに感謝します。
また、次世代にも、平和の大事さを伝えていかなきゃ、とも強く思い、もっとモンテッソーリの平和教育もしていきたいところ。
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