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「生きることに疲れた」

生きることに疲れるということは、肉体的に疲れたということではないだろう。
仕事をしすぎたとか、運動をしすぎたという意味ではないだろう。
肉体的に疲れたのであれば、休めば回復する。寝れば回復する。

しかし、生きることに疲れた時には、寝ても疲れは取れないし、だいたい、寝ようとしても寝つかれないことが多い。
生きることに疲れるということは、心身ともに疲れるということであろうが、主に心が疲れたのであろう。

また、生きることに疲れたということは、単に何かにショックを受けて疲れたということだけでもないだろう。
悲しい事件が続いて心理的に疲れたという意味だけではない。
親しい人を失って疲れたという意味だけでもないだろう。

もう生きるのがイヤになったという意味で、「生きることに疲れた」と言う人が多いだろう。

生きることに疲れた人は、「生きるのがイヤ」と思いつつも、世の中に恨み辛みは残っている。

「生きることに疲れた」と言う人は、小さいころからの毎日のストレスの中で、すべてがイヤになったのだろう。
そして、心の底に憎しみが抑圧されている。

例えば人と話をするのでさえしんどい。
近くにいる人と会話をすることですらエネルギーを消耗する。
会話を楽しむ人がいるが、生きることに疲れた人は会話するのも辛い。
何気ない日常の会話も辛い仕事になる。

それは無理をして話しているからである。
興味がないのに、興味のあるふりをして話をしなければならないからである。
会話をしようとすると、自分が自分で無くなるからである。

生きることに疲れた人は、心の底に憎しみが抑圧されているから、人と心が触れ合えなくなっている。
一人でいることは楽しくはないが、皆でいるのも消耗する。
人前で自分を偽るからである。
そして何をするのも億劫である。

だから、周囲の人から何かを要求されることが辛い。
簡単なことでも「こうしてくれ」と要求されることが多い。

自分からしたいこともない。かといって何もしないでいるのも辛い。
生きるのがイヤなのに対処の仕方がわからない。
食べたいものがない。見たいものもない。
映画にも演劇にも行きたくない。
会いたい人もいない。
でも家にいても退屈でやりきれない。

おそらく「生きることに疲れた」と言う人は、世の中に恨みを持ちつつも、生きるエネルギーを失ったということであろう。

長いことさまざまな感情を強引に心の底に押し殺しているので、生命力が低下しているのであろう。
生命力の低下した人が、生きることに疲れた人ではないだろうか。

なぜ人はいきることに疲れるのだろうか。なぜ生命力が低下するのだろうか。

生きることに疲れた人は、おそらく憎しみとか敵意とか嫌悪感など、さまざまなマイナスの感情が、心の底にうっ積しているのであろう。

生きることに疲れた人は、長いこと憎しみの感情を直接相手に吐き出すことはなかった。
また、罪を犯すことで憎しみの感情を社会に吐き出すこともなかった。
あるいは、反戦運動に参加して正義を盾に憎しみの感情を吐き出すこともなかった。

しかし、根雪のように凍り付いたマイナスの感情を、本人はあまり気がついていない。

生きることに疲れたという感情は、嫌いな会社で働きながら会社を嫌いとも意識できないで、長く働いているときの心理状態であろう。
あるいは、嫌いな家族と一緒にいながら家族を嫌いとも意識できないで、長年一緒に生活した後の心理状態であろう。

しかも本人はそこで真面目に生きてきた。
「認めてもらいたい」と思って頑張って生きてきた。
自分は無理をしていると気がつかないで夢中で生きてきた。
「この人生にはきっと何かあろうだろう」と一生懸命に生きてきたのに、気がついたら生きることに疲れていた。

生きることに疲れた人は真面目な人である。
努力してきた人である。
努力しているときに、まさか自分がこのようになってしまうとは予想もしなかった。
自分の努力は、いつか報われると思っていた。
いつか皆から称賛されると思っていた。
まさか自分の人生が、このような形で行き詰まるとは予想していなかった。
でもいま、生きることに疲れて、何もする気にならない。

生きることに疲れた人はまさにそのような人のことを言うのである。

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