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失くした二分の三

「アナ……凌司りゅうしさん、待って!」

顔を見なくても判る、
今でも胸をわし掴む声に、
振り返りたくない本心を必死でなだめて、
私は作り笑顔を整えてから立ち止まって振り向き、
元妻へ手を挙げて応えた。

「久しぶり。どうした?」

少し浮腫むくんで肌がくすみ、
日勤明けだけでない疲労がにじんでいても、
持って生まれた造形の美しさが曇る事は無く、
私のまなこは彼女にかれてしまう。

「大変だったって聞いて。大丈夫なの?」

私の両肘を強く掴む彼女の瞳の奥に、
既に狂気が鈍く光っているのを認め、
私はおののいた。
そして、私はそんな自分に動揺した。

「自分でもまだ緊張してて良く分からないんだ。
今の処は大丈夫なんだけど、
これから様々な症状が表れるだろうと、
主治医に宣告されてるからね」

「家族が必要なんじゃない?」

「一方的な負担を強いる前提の家族なんて駄目だよ。
ぼくが許せない」

「じゃあ、看護師、もしくは介護師は?」

「君も朗正あきまさもお断りだよ。
……愛してるからさ、
見せたくない姿もあるって解ってほしいな」

「私達の気持ちも解ってほしいわ! 
愛する父親が今正に同業者を必要としてるのに、
他人の親の世話なんて!」

「朗正がそんな事を? 本気で?」

「……云ってない。一言も」

「うん、そうだろうね。
絵理香えりか、オノ君とはどうしてるの?」

「別れました!」

「ああ、そう。何時いつ?」

「六日前」

「理由は?」

「アナタ」

「ぼく?」

私は意外過ぎる彼女の返答に面喰めんくらった。
理不尽な理由で、
私を寒空の下へ着の身着のままで放り出し、
代わりに氏を住まわせた
張本人の潤んだ瞳に苛立いらだち、
そんな自分に再び動揺した。
彼女の言動の全てを許せた私は、
一体何処どこへ行ったのか。

「アナタが面会謝絶になったって聞いて、
私パニック起こしたの。
とても他人事ひとごとになんかできなかったの。
アナタを待つ事しか頭に無くなっちゃったの。
居ても立っても居られなくなって……」

「で、彼を追い出した」

「そう」

「相変わらずだなぁ、絵理香。
そんなヒステリックで衝動的で高圧的なんじゃ、
今のぼくには付き合いきれないよ。
信じられないだろうけど、
結構イラッときたんだよね、今。
もう既に君が知ってるぼくじゃなくなってきてる」

「ウソよ」

「それは冷静に見れば分かる筈さ、
君が君である限り」

「そんな……そんな事って……! 
三十年変わらなかったのに! 
たった一度ぶつけた・・・・だけで! 
………許せない
………許さないわ!」

他の生命体になった時点で、
中身・・を意志の力で維持できる
保証はなくなったから、
変容する己を受けれて、
上手に方便ほうべんを使ってくださいよとの、
バンパイア専門医の言葉を思い出す。
なるほど、
だから対外的には
「脳に影響を及ぼす≒頭をぶつけた・・・・
事故という設定になっているのか。

「まあまあまあまあ、
五十路いそじ入って折り返したら、
うっかり転生したとでも
思ってもらうより仕方ないね」

「て、てんせい?」

彼女が私と過ごした人生の中には
無かった単語に奇襲されて、
声を裏返した。

「朗正が、ああ、君もやってたね、
何とかってゲーム。
最大レベルまで上がると、
生きながらに生まれ変わる事も選べる
システムがあったらしいじゃない。
大凡おおよそは変わらないけど、
回をて少しずつ変容する。
何時しか最初とは
すっかり変わってしまっているかもしれない」

私はもう今にもきびすを返して走り出し、
師の結界に護られた新しい部屋へ逃げ帰り、
私自身を取り戻したかった。
彼女に苛立つ自分に耐えられなかった。
いまだ両のまなこ
雪上に舞い降りた乙女椿のようなかんばせに縫い付けられ、
心臓を握られたかごとしの鼓動こどう窮屈きゅうくつ早鐘はやがねを打ち、
触れられた彼女の体温からは欲情がほとばしるというのに、
過去には存在すらしなかったうらみ言が
ぽこりぽこりと湧き上がってくるさまに耐えられなかった。


「母さん、お待たせ……
あ、父さん! 
顔色があまり良くないね。
ぼく、今日昇給したんだ。
食べ放題付き合ってよ」

背後から何にも勝る光が、
私の心の暗雲を千々に切りいた。
私のいやし手であり導き手である
愛息の声に穏やかな心持ちが蘇った。
彼が親と呼びたい人間で在り続ける事、
それが私の生涯の信条だ。

「そうか、おめでとう、朗正あきまさ
絵理香えりかはどうしたい?」

「勿論アナタと一緒に行きたいわ」

「ああ、そう。
ぼくは稽古があるから長居はできないけど、
御相伴ごしょうばんに預かるよ」

「良かった! 今度は何の役?」

愛息の指差す方向へ
歩道を三人で縦列して進む。
耳の良い絵理香が先頭、
私が真ん中で、
朗正が殿しんがりだ。
最近できたと、
退院祝いに来訪した吉田きったが話していた、
肉と寿司と野菜と甘味が
食べ放題メニューに揃っている店へ行くのだろう。

「吸血鬼。
そのせいでひどい目にったから、元を取るよ」

「酷い目って?」

「……吸血鬼の縄張り争いに巻き込まれた」

「うーん、どういう比喩ひゆ?」

「ちぇ、もう朗正は吸血鬼を信じないか!」

「あー、父さんが目の前で演じたら、
本物が居たって思うと思うよ」

「はは、そう言ってもらえるよう精進しょうじんするよ。
朗正なら、どういうのが本物ぽくなると思う?」

「うーん……有名なのは
夜行性で昼間は棺桶かんおけで眠る、
にんにく嫌い、
太陽の光に当たると灰になる、
十字架に触れると火傷やけどする、
心臓に銀の杭を打たれたら……復活できない? 
そこはかとなく顔色が悪くて
細腕ではかなげなのに怪力で、
異様に足が速くて、
夜なら空も自由に歩けて、
マントで空を飛べたり? 
ああ、吸血する時だけ八重歯やえばきばに伸びるとか?」

「ほうほう……とても参考になるよ。
思いつくままに教えて、絵理香も」

「処女の生血いきちすするって吸血鬼だった?」

「ぼくが覚えてるのは
吸われる女の人は人妻ばかりだったよ。
男の人も吸われてた気がする」

「ほほぅ……男性は殺すつもりで
干からびるまで吸い尽くさなかった?」

「覚えてないなあ……
『男の人もいけるんだ!』って
衝撃の方が大きくって。
女の人が出る時は決定的なシーンが無いのに
凄くエロティックでさ……そっちに夢中だったよ、
中学生中坊の頃だもん」

「ああ、なるほどね」

私は離婚前と同じ様に、
愛息に渡した携帯録音機で、
愛息と元愛妻との会話を録音しながら、
思いついたアイディアを携帯端末へ書き連ねる。

「美形じゃなきゃ女性を油断させられないわよね。
上品でムードも有って……
うっとりさせられなきゃ、
三歩と近寄らせないわ。
首筋になんて絶対口づけさせないでしょ。
ア、でも西洋は挨拶で抱きしめたり、
頬に口づけたりするんだっけ」

「そう言われてみればそうだね」

「どっちにしてもムードは大事だよ。
父さんの吸血鬼は女の人しか駄目なの?」

「美味しそうでなびいてくれれば
同性でも良いんじゃないかな。
そうだな、清らかなら良さそうだね」

「童貞?」

未成年子どもほふる役は嫌だなあ。
自然派食品にこだわってたら、
血が美味しそうだよね」

「ふふっ、十年とか長年清らか・・・だったら、
もう清く・・なってそうじゃない?」

「そうなると、ふくよかな
お爺さんお婆さんでも大丈夫になって、
対象者が増えるから、
長生きし易くなるかもね」

「二人とも素晴らしい発想だ!」

「へへ。
死んでしまうまで一度で吸っちゃうの?」

「どうするのが良いと思う?」

「人が急死したら騒ぎになるから良くないよね。
遅かれ早かれその町に居られなくなるでしょ? 
とりこにして、
少しずつ何回もいただくほうが良いんじゃないかな」

「なるほど!」

「吸血鬼に吸血された人って、
死ななかったら吸血鬼になるんじゃないの?」

「そうなると相互契約?」

「相互契約! 良いねぇ、それ。
面白そうだ」

「あ、早い応急処置と輸血で
吸血鬼にならずに済むくだりもあった気がする」

「ほほぅ……」

「相互契約は嫉妬深しっとぶかい人だったら大変ね。
期待外れでも他は二度と吸えないわよ」

「ははぁ、終身契約か。
でも始祖の方が清らか・・・じゃなかったら、
六条御息所・・・・・は満たされないから
他所よそへ走らないかね?」

「ふふっ、父さん、
六条御息所ろくじょうのみやすんどころって自分で言っちゃったじゃん。
彼女なら吸わせた相手光源氏
どんなに清らかじゃなくても
恋い焦がれ続けるんじゃないかな」

「ああ! そうだよなあ」

「あ、思い出した! 
吸われる事に依存性があったんだよ。
美しい吸血鬼への自己犠牲じこぎせい陶酔とうすいしてるのか、
実際吸血されてる間に快楽が得られるのか、
単に貧血由来の酸欠で酩酊めいていしてるのか、
どれかは知らないけど」

「なーるーほーどー。
三つ目のは新しそうだ」

「ねぇ、吸血鬼って何が必要なのかしら……
血液だけなら輸血パックで良さそうじゃない? 
牙で肌を破る行程も必要なのかしら?」

「そうだよね……
牙で皮膚と血管を破って、
牙に食道みたいな管が通ってて吸引するの? 
それとも、
噴き出した血を口で啜って食道を通して飲むの? 
味蕾みらいは口腔以外にあるのかな?」

「うーん、元祖吸血鬼の本を借りるべきかな」

履修りしゅうしてなかったのね」

「うん、ぼくはメジャーどころは何も
読んでも観てもいないんじゃないかな。
漫画は一つだけ読んだ事あるんだけど。
絵理香が持ってただろう? 
十字架の神に仕える為に身体の殆どを
サイボーグに変えてしまった吸血鬼の話」

「アナタ、何時いつの間に……!
私の本棚の漫画なんて読んでたの?」

「ああ、殆ど読んだかな。
あれは最後まで一気に読んで、
鍋を焦がしてしまった」

「母さんのやおい・・・棚の方か! 
結構好きな本見つけたのに、
それは知らないなぁ」

「いやぁあああ! 朗正まで!」

「別に叫ぶ程の事でもないよ。
同性だろうが異性だろうが両性無性だろうが、
ラブストーリーは好きだよ。
負の感情を性欲でぶつけるのはサイアク。
男物は多いんだ、
自分の征服欲と射精欲だけを充たす、
ムードなんて微塵も無い
不粋ぶすいな上に下衆げすなストーリー。
吐き気がする」

「なら良かった。朗正がまともで安心したわ。
でも意外。アナタ達が腐もたしなむなんて……」

「何ンて? フ?」

「豆腐の腐。
女性向け男性同性愛の創作物を楽しむ事だね」

「へぇ、女性向けと男性向けは違うのかい?」

「ぼくは男性向けは見た事無いけど、
違うんじゃない? 
だってそもそも男性向けと女性向けでエロ表現が違うし、
同性愛となったら当事者と傍観者でしょ?」

「あー、そうか。そうだよなあ」

「はいはいはい、到着したから、その話は終了ね」

「「アイアイサー」」

「吸血鬼さんは赤身をたくさん食べてね」

「イエッサー」

百二十分食べ放題という戦場で我々は会話自体を控え、
偏食の限りを尽くした。
愛息が席を立つ間に元愛妻へ、
元愛妻が席を立つ間に愛息へ、
始祖と組織から支給された金銭を内密にと言い聞かせて渡し、
私は小一時間で腹を満たすと、
宣告通りに稽古を口実に中座した。

以前通りに振る舞えた、筈だ。
朗正が現れなかったら……
いや、考えても詮無せんない事だ。
長命を得たとしても、
たられば・・・・に浪費して良い人生など一秒たりとも無い。
家へ帰ろう。
のんびり歩いて星を数え月を探しながら、
妙に清浄な気配に充ちている
あの古い大きな我が家へ帰ろう。

(了)


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