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映画 えんとつ町のプペルを観て

(引用:映画えんとつ町のプペル).


皆さんは雲の上を見たことはあるだろうか。

少し好奇心旺盛な社会人であれば一度や二度は飛行機に乗って、シートベルト着用サインに従い、慣れないGに耐え雲の上まで行き「綺麗だね」と写真を撮ったことがあると思う。

社会人になって初めてグアムに行った時だが、意外と雲の上は何もない。

そもそも雲とは大気中に浮かぶ水滴であって、人工的に作ろうと思えば小学生の理科の実験ぐらいの規模で簡単に出来てしまうものである。

たまにSNSで空の写真を投稿して、深い様で全くもって浅いことをそれっぽく投稿したり、構って感を画面いっぱい余すことなく空の写真を使って投稿しているのを見かける。(私もある)

あれは空にある雲が先を遮っているの利用し、雲の先には自分の求めていることがあるのではと思いを馳せるからではないだろうか。

最近で言えばマスク効果も同じだ。

歯医者さんに綺麗な人が多いと感じるのは、見えないところに自分の理想をつくる様に私達の脳が出来ていて、その影響からなのである。


そんなところで先日、映画 えんとつ町のプペルを観てきた。簡単なあらすじとしてはこうだ。

えんとつだらけの町「えんとつ町」は、朝から晩までもっくもく。

空はいつも黒い煙に覆われていてえんとつ町の住人は、その黒い煙の先に何があるか知らなかった。

ところがこの町に住む、えんとつ掃除屋の男の子ルビッチだけは、星の存在を信じていた。

それは亡き父ブルーノが『この煙の世界の上には、青い空や星がある。』という紙芝居をルビッチを含めたえんとつ町の住人に読んでくれていたからであった。

煙の世界の上を知らないえんとつ町の住人達は最初は興味本位で聞いていたが、段々とそんな紙芝居が耳障りとなり、ブルーノを次第に煙たがるようになっていた時、ブルーノは海に落ちてしまい帰らぬ人となってしまった。

えんとつ町では他の人と違うことをするのが許さず処罰される為父親の死後以降、ルビッチは星の存在を信じていることは誰にも言わなくなった。

ある日、ルビッチの元に体がごみで出来たごみ人間プペルが現れルビッチとプペルは友達になり、星の存在を信じていることを伝える。

ルビッチとプペルは一緒に過ごす様になったが、人間でないプペルは異端審問官という他の人と違うことをする人を処罰する組織に目を付けられてしまうが、そんな中でも誰も見たことがない煙の上の空や星を2人で目指す。

この話は原作者であるキングコング西野亮廣さんの経験を元にしていると思っている。

2019年近畿大学の卒業式で西野亮廣さんは『ディズニーを超える』と本気で言っていた。

有名な動画であるが、多くの普通の人が「芸人がなにを言っているんだ?出来るわけないだろう」きっとこう思っただろう。

今回、映画 えんとつ町のプペルで目標としてるディズニーを超えることは出来なかったかもしれないが、単純に考えてディズニーと同じ舞台に立っているだけでも多くの普通の人が成し得なかったことをしているのである。

私達が「イチロー選手を超える」といってイチロー選手を超すことが出来なかったとしても、イチロー選手と同じメジャーリーグという舞台で野球をしたのと同じくらいのことを西野亮廣さんは成し得たのだ。

多くの普通の人が出来るわけないだろうと思っていたことを。

映画の中でルビッチは雲の上を目指すときに、青い空や星があることを知らず馬鹿にしてくるえんとつ町の住人に向かってこう言う。


『誰か見たのかよ!あの煙の向こう側を!』

『誰も見てないだろう!だったらまだ分からないじゃないか!』

ルビッチやプペルの様に人と違うことをする人を多くの人は笑うだけ笑って、自分達は雲の上をずっと創造していることしかしない。

雲の上を知ることが出来るのは自分を信じて、雲の上に行こうと何度も挑戦し続けたものだけである。

挑戦し続ける人の道はきっと拓ける
私はそう信じている

それでは^ ^

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