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作品が掴めない理由

まず先に断っておくが、論理と理論とは違う意味。理論は文法など、使用の方法を整理した後付されたもの。論理とは文脈など、説明するための作り方の問題だ。これらを混同する人が多いので困る。

論理にはその流れの中に区切りがある。それは単語であつたり、文節であったり、節であったり、フレーズであったり、文であったり、段落であったり…

論理が「見える」ためにはそういう仕組が掴めているかどうかにかかっている。それがなければ、文章は単なる文字の羅列でしかない。

入試国語に出てくるような文章が読めないのは、およそ文字、単語レベルしか掴めていないからだ。逆にそれぞれの単語の意味が不明確であっても、前後の論理の流れが分かれば、読み通すことは可能だ。英語の場合はその傾向はさらに強まる。というのは英語は構造の約束事がはっきりしているからだ。英語の文章を読見慣れると、単語の意味がわからないものがあっても、およそ論旨が読み取れるのも、構造があるからだ。

それは音楽においても同じだ。およそ音楽は規則的な動きがある。その運動の周期性を把握できると、音楽は音の羅列から論理として捉えられる。だが、その力がない場合、音響に意味を求めようとする傾向がある。世間に、音楽を感覚的に、本能的に受け止めようとする声が絶えずあるのはそのためである。

だが、昨日も書いたが、このレベルでは演奏はできない。音符を鳴らすこと、それを感覚的なレベルで鳴らすことが精一杯だろう。こういう人が演奏をまとめようとするのは、とても危険だ。

よくいる、おんがくのセンセイが「感覚」的な指導をしがちなのはそのためである。だが、感覚は個人的な問題だ。その弱点に気がつく、あるいは自分の感性に自信が持ちにくいのはそのためである。そこで権威や、作品の背景やら伝記的な情報によって裏付けをしようとする。場合によっては自分の感性さえ否定して、自ら、そういう外部情報に洗脳されようとしてしまう。更には指導の面において、その思想を押し付けてしまう。それは見ていて「痛い」。

例えば、BWV1068のairを例にとってみよう。

この作品では、多くの場合、その和声の響きに釣られてしまうだろう。そして、その感覚的な把握を中心にしてしまうから、テンポは遅くなる。そして、bass パートの八分音符の響きに「意味を見出そう」とする。そうやって8/8拍子化してしまうのだ。このレベルの把握で留まる人が指導の立場に立つと練習は不毛になる。あるいは「洗脳」されて宗教行為的ななものになる。アンサンブルの精度が徹底され、音楽のリズム的な躍動が否定される。形が見えていない、というのは個人的な趣味の押し付けで終わってしまうのだ。

楽譜は4/4で書かれている。ここに戻らなければならない。つまり、このairは八分音符の呼吸ではない。「拍」はあくまでも四分音符にある。

だが、四分音符レベルでも呼吸は見えない。楽譜に注目すると、運動自体は二分音符が基準にあることがわかる。例えば、1小節めにおけるva の動きだ。つまり、四分音符の脈動の上を二分音符の呼吸でメロディは歌われる。bassパートの八分音符は4つづつでグルーピングされる。ここまで見えて、ようやく骨組みが見えてくる。

ここから、小節運動の規則性を探ってみる。すると、この作品ば「小節の6拍子」で構成されていることが見えてくる。こうやって、やっと作品にアプローチができるのだ。この形が見えて、やっと、論理的な立場から他人とコミュニケートができる。感覚の問題もここから初めて触れることができる。

感覚的な把握のレベルでは他人とコミュニケートはできない。

そのことを受け止めておかないと、個人的には悩むか、他人に対して支配的になる。





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