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記号のようなもの

 生物学的な性別を、実感する瞬間がある。
 それは、月に1度のはずだった。
 スマートフォンとは誠に便利なもので、わざわざ手帳につけた三日月マークとにらめっこしなくても、アプリで「まもなくです。準備しておきましょう」なんて、お知らせしてくれる。

 先ほど「月に1度のはずだった」と書いたのは、妊娠・授乳期を除いて中学生以来ずっと固定だった28日周期が、この2年ほど揺らいでいるからだ。
 不思議なもので、妊娠中のつわりに似たような、どことなく気持ちが悪いような感覚があったり、気圧に関係のない頭痛に苛まれることも増えた。ホットフラッシュ、身体の痛みなど、不定愁訴は枚挙にいとまがない。

 これは、よく聞く更年期障害の入口なのだろうと思っていて、あと数年でそれとさよならできることに、どこかホッとしている自分がいる。

 

 “女性が生涯に分泌する女性ホルモンの量は、ティースプーン1杯ほどである”と何かで読んだ。そんな微量のホルモンのために、思春期には胸が膨らみ、欲しくもない骨盤が張り出して、私は着たい服を着られなくなった。母の期待に沿って女性らしい服を着て女性らしく振舞った20代を経て、30代で自分らしさを取り戻してからは、プライベートではおっぱいを潰してユニセックスの服を着ていることが圧倒的に多い。

 

 話は変わるが、インターネット上のサイトに会員登録をする際に、性別欄に、3つ以上の選択肢がある場面が増えている。

当てはまる性別をチェックしてください。
 ○男性
 ○女性
 ◉どちらでもない

 
 3つ以上の選択肢がある場合は、私は男性でも女性でもない選択肢を選ぶことにしている。
 かと言って「私は女性ではない」と思っているわけではない。

 誤解を避けるために説明すると「男性になりたい」と思っているわけではない。私は、性同一性障害 や FtM でもない。身体の性は女性、心の性はニュートラルだ。
 男性と女性を白黒だとしたら、その間には限りないグラデーションのグレーが広がっている。女性にかなり近いその片隅に、私はいる。

 人生の数々の場面において「男性に生まれたかった」と感じたことは数知れずある。子どもの頃は野球をやりたかったし、アサガオでおしっこをしたかった。ピンクやレースやフリルは今でも嫌いだし、職場ではガラスの天井が頭上にある。
 でも、生物学上は紛れもなく女性であって、戸籍上は「妻」であり「母」であって、職場でも女性として生きている。妊娠期から授乳期にかけて母親としての充足感も味わい、女性に生まれたことを幸せに感じた瞬間も、確かな実感として、あった。

 女性であることを認め、女性として生きるほうが、抗うよりもずっと生きやすい。そして、私はそこに「耐え難い違和感」を持っていないので、女性で構わないし、医療・統計的な観点から性別が必要である場面では、それを咀嚼したうえで「女性」と記入する。

 でも、選択できるのであれば、私は自らを「女性」とラベリングしたくない。「女性」とラベリングされるのも、好まない。

 

 私が「女性」ではなかったとしたら、何か変わることがあるのだろうか。


 性別は、ただの記号のようなもの。
 私は、そう思っている。
 その記号は、医療・統計的な観点以外に、何の指標として必要なのだろうか。恋愛または性の対象としてのラベリングだろうか。そして、それは正しいのだろうか。誰か、反論の余地なく納得させてくれる人がいるのなら、私に教えてほしい。

 そしてそれは、性別だけではなく、年齢についても同じことがいえる。

 

 あなたが違う性別だったとしたら、あなたの年齢が±20歳だったとしたら、あなたの作品の価値は変わるのだろうか。
 そして、私はあなたの性別や年齢のフィルターを通して、作品を見つめていなかっただろうか。

 私がもしも「父親」としてあの作品を書いたのだとしたら、または「兄」や「祖母」として書いたのだとしたら、あの作品の価値は変わるのだろうか。
 そうだとしたら、あなたは私のあの作品を好きになってくれただろうか。

 

 これからも、私は「女性」を意識させるような作品を書くだろう。
 それは、私の引き出しには、女性として生きた経験の方が圧倒的に多いからだ。
 でも、ひとりの更年期女性である前に、ひとりの人間。
 そして、あなたもその性別・その年齢である前に、ひとりの人間。

 それを忘れない自分でいたい。

  

 性別や年齢のフィルターを通さず、その奥にある人間の本質を見つめようと誓った、2021年のお正月。
 更年期の自分のことは、もうちょっとだけ甘やかしてやろうと思っている。

ここまで読んでくれたんですね! ありがとう!