花守りの祝日
毎日の通勤路には、平安の世からつづく神社がある。けっして有名なお社ではないけれど、大きな楠の木と緑あざやかな林、ちいさないくつかのお社を抱いている。
その参道の両脇にはソメイヨシノの老木が並んでいて、寒々しいはだかの枝を青空に伸ばしている。三寒四温のこの時分、行きは枝のすき間から朝の陽の光を運転席まで届け、帰りは刻々と変わるグラデーションの宵空に、鳥居と枝の幻想的な影絵をつくる。
変わらぬコンクリートの建物へ通うわたしが、うつろう季節を感じられるお気に入りの場所だ。
よく晴れて風のない、小春日和の祝日だった。
昼下がりに車で通りかかると、首に手ぬぐいを巻いたおじいちゃんたちが桜の下草を刈っている。マスクをして、鎌やら熊手やら竹箒を手にしているのは、10人ほどだろうか。後続車がいないのをいいことに、わたしはスピードをぐっと落として、そろそろと車を進める。
反対側には、常連のキャスケット帽のおばあちゃんもいた。彼女はどの季節でも、ここにひとりでいる。誰かが彼女の車椅子を押しているところは見たことがない。弱い脚は車椅子のステップ板に預けたまま、健側の脚で地面を蹴って前に進んだり、バックしたり、時にはあざやかにターンを決める。
暑い季節は朝早く、寒い季節はあたたかい午後に、彼女は参道を行き来している。ひらひらと桜が舞い落ちる春は、朝も昼も夕方も、行きかう人々と同じように花を見上げ、すぅーーっと移動していく。そのほころぶ表情を見て、話したこともない人なのに、こころ動かされる。残業のつづく季節なのも相まって、うっかり涙ぐんでしまったりもして。
下草を刈るおじいちゃんたちは、いつもこの参道を清めている。
その昔、幼いこどもたちと自転車で花見にでかけた頃も、おじいちゃんたちはそこにいた。人の集まるお正月も、こども達でにぎわう春祭りも、暑い夜の茅の輪くぐりも、樹々の色づく七五三も、いつも。
そして、お神酒を奉納する造り酒屋の桜の下のベンチで、にこやかに語らいながら、季節を問わず彼らは昼酒を楽しんでいる。暑い日は木陰にベンチを移動して、寒い日は一斗缶に薪をくべて手をかざしながら。
すでに土の見えている桜の足もとには、等間隔に何やら大きな白い四角いものが置かれている。その脇には大きなショベル。
チラ見したそれを帰宅してから調べてみると、サクラの緩効性の活力剤と知った。寒肥(かんごえ)として、それを根の先のほうの浅く掘った地中にまき、根からの吸収を高めて花の付きを良くするものらしい。
運転席から見たおじいちゃんたちの姿が思い浮かぶ。今ごろ、たくさんの桜ひとつひとつの根もとをショベルで掘り、活力剤を撒いているのだろうか。
そして、あの酒屋の店先で、今日も乾杯するのだろうか。
翌朝はやく通りかかったときには、白い袋はなかった。もちろん花守りたちの姿もない。おそらく昨日のうちに、すべてを桜に託したのだろう。
コートを着て足早に駅に向かう人々、自転車の前カゴにエナメルバッグを積んだ球児たちとすれ違う。そこにあるのは、見慣れた平日の朝だった。
「冬来りなば春遠からじ」というけれど、まだまだ気温の波はつづいていく。祝日に花守りたちの愛を注がれた桜は、たとえ寒さがぶり返す日があろうとも土のなかで根をひらき、養分と水を枝のさきまで送りとどけて、たくさんの蕾を育てていくのだろう。
疫病に地震、わたしたちが揺れうごく今日も、花はただ春に向かう。
ここまで読んでくれたんですね! ありがとう!