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【エッセイ】人はナゼ亡き人を空に想うのか

ねぇ、不思議だと思わない?
ある日ふと思ったのよ。
私達って、どうして亡き人を想う時、空を見上げるのかしら?


空。


そこには、何も無い。


空(そら)にあるのは、空(から)っぽの空間だけ。
きっと、厳密に言うと酸素だの窒素だの水蒸気だの、何かしらあるのかもしれない。

だけど、物質的にそこに何かあるのか?と問われれば、私達に見えているのは雲や太陽、夜なら星や月くらいだ。

これが太古の時代なら、不確かな存在である宇宙空間や惑星の不思議に、この世のものと一線を引き信仰心を持ってみたりするのだろうけど、科学技術が進んだ今では、月にウサギがいないことも実際に黄色でないことくらい大抵の人が知っている。

もちろん、太陽に神様が住んでいることも無ければ、星がコンペイトウのようなカタチでないことくらいも明らかだ。


そう、今となっては人はかつてのように、そこに極楽と呼ばれるような場所や天国と言われる空間が物理的に存在しないことくらいは、理論上は知っているのだ。

もちろん、宗教によっては賛否両論のご意見があるだろうが、今回に限ってはあくまで人間の肉眼で見えている世界についてだけフォーカスしているので、そこはそっと目を瞑っていて欲しい。


そこで私は思ったのだ。
人はナゼ亡き人を想う時、空を見上げるのかと。

「逢いたい、恋しい、寂しい」このように感じるのは、当然自然なこと。
だけど、空に愛する者の亡骸が無いことも、魂が存在している証拠も何も無いのに、多くの人が空を見上げることに対して何ら疑問に思わないのだ。


改めて想うと不思議じゃないかしら?


日本で死者を弔うカタチは、一般的に土地の事情もあり火葬の場合がほとんどだろう。
もちろん場合によっては土葬というパターンもあるかもしれない。

所変わって世界では、亡骸を海や川などの水に沈める「水葬」や、自然に風化させる「風葬」、猛禽類に身を捧げ天へ運んでもらうとされる「鳥葬」なるものもある。

最近では「宇宙葬」と呼ばれる弔い方も存在するので、「鳥葬」や「宇宙葬」に関して言えば、空を見上げるのは納得な気もするが、大抵の場合、愛する人の亡骸は墓石の中もしくは納骨堂など、この地上にあるわけだ。


こう言ってしまっては、なんだか私という人間は夢もロマンもない、ものすごく薄情な人間だと思われてしまうかもしれない。

だが、このような思考が頭の中でひょっこり顔を出してしまった日には、思う存分空想の海をクロールしたり平泳ぎしたり、時にぷかーっと浮かんでみたりしなければ、なんとも厄介なことに水面の凪はやってこないのだ。


そんなわけでこんな日は「あー今日はもう、そういう日なんだな」と諦め、思いっきり思考の渦にダイブしてみることにしている。

妄想と哲学じみた空想の狭間でジャバジャバとバタ足をし、ああでもないこうでもないとただ一人泳いでみるのだ。

別に答えなんて出なくていい。
ただの空想なのだから。

思考の海には誰もいない。
だだっ広い空間があって、時々薄暗い場所に私の中の私がやってきて一人で時を過ごす。
そういう場所。


だが、私なりに考えてみた答えはこうだ。

Q.人はナゼ亡き人を想う時に空を見上げるのか?

A.亡き人が、目の行き届く上から見守っていてくれていると信じたいから

さぁ、どうだろう?
これが私なりに出したこの疑問に対する答えだ。

なぜなら、私自身が強くそう信じたいからだ。


私には大好きな父がいた。
お察しの通りもう亡くなってしまったのだけれど、どんな時もやりたいことを応援し新しい考えも柔軟に受け入れ、「仕事とは楽しいものだ」と背中を見せてくれる姿が私は好きだった。

今思えば、土木や建築などを通し都市計画をするのが仕事だった父は、手先が器用でアイデアマンだったのだが、私が創作が好きというのも、そのような背景があるのかもしれない。


そんな父が亡くなったのは、私がまだ20代の頃だった。

親子でありながら、人生の先輩として大人を楽しむことへの憧れを抱かせてくれた父を亡くすという喪失感は、例えようがないほどに、いたく苦しいものだった。

一家の大黒柱とはよく言ったもので、まさに大きな支えを無くしてしまった住処のように、私の心はボロボロでベッドから起き上がれない日々が長く続いたのだ。


いつだったろうか…..。
そんな折は自然と空を見上げて、よく父を想ったものだ。


「もう一度でいいから、声が聞きたい、手を握りたい」と懇願することもあれば、ただ「ずっと大好きだよ」と想いを託した時もあった。
そこに父のお骨があるわけでもなく、魂があるのかも定かでは無いのだけれど、どうしてもそう思いたかったのだ。


ここでもう一度、冷静に分析してみよう。
人はナゼ亡き人を空に想うのか?

その理由はいくつかあるのかもしれない。
私が出した答えのように、「見守っていて欲しい」という願望かもしれないし、昔から受け継がれている天国説や極楽説によるものもあるだろう。
またもし、視覚的影響があったとするなら、火葬場で立ち上る煙を目にして、空に帰った亡き人の魂を見たように感じた人もいるのではないだろうか。

実際に私もそう感じた。
父に関して言えば、火葬した日に空に大きな虹がかかったのだが、何の縁かいたずらか父が旅立ったその日は7月16日で、語呂合わせで言うと「なないろ」と読めるではないか。

もちろん、そんなものただの偶然だと鼻で笑う人もいるだろう。
だが私はほんの一縷の望みだとしても、そこに父とのつながりがあることを信じたかったのだ。


死別


それは人と関わり生きる世の常で、けして避けては通れないもの。
かつて空という場所は、飛行機が存在しない時代ではきっと今よりももっと未知なる神秘として崇められ、特別な存在だったのであろう。

もちろん現代であっても、空は美しく唯一無二の空間であるが、あらゆることが解明された世では、色んな情報や思想が入り乱れ、私のような雑念が頭をかすめることもある。


しかし、どんな時代でも変わらないものもある。
それは、人が人を慈しみ愛する心だ。


これだけは普遍の事実でる。


さもなくば、どうやって今まで命が紡がれ後世に受け継ぎ、人間が絶滅せずにこの時代に生存していると言えようか。


かつて大陸が大きく1つにつながっていた頃、人は人種だの国境だの、そんな発想さえなかったのかもしれない。
だがどうだ、地球の息吹の中で集合と移動を繰り返す大陸変動は、人々の心までも大きく変えてしまった。

人が集団の中で生きる以上、ある程度の区分けやグルーピングは必要かもしれない。
だが、過剰な集団意識が時に亀裂を生み、いがみあい、自分以外は敵とする、そんな価値観が普通になってしまうのは、同じひとつの惑星で暮らす住人として、すごく残念でさみしくなってしまうのだ。


なんだか少し壮大な話になってしまったが、たとえこのような悲しい価値観がはびこってしまったとしても、おそらく人は人であるから、この根底にある心の部分が腐ってしまわない限り、不思議かな愛する人を無くした時、だいたい同じ行動をするのではないだろうか。


そう、空を見上げて亡き人を想う。


なんとも不思議なものだ。
これだけ様々な文化があり、弔い方法さえも違う。
それでも遺伝子のいたすところか、本能か。
この世に亡骸が無くとも、いつでも空に愛する人がいて、見守っていて欲しいと願う想いは共通の念なのだ。


亡くなった人の行き先というのは、自分がこの世を離れる時でなければ、その答えは分からないのだけれど、もうなんだかこれは愚問というか。

どれだけ科学が発達しようとも踏み入れてはならない領域というか、そっとしておくべき花園というか。
触れてはいけないラビリンスなのではないかと思う。


そうやって、あえて解明しないことの美学。
全てが黒と白でなければいけない理由などないのだ。

そう、グレーであることで成立する希望の園があってもいいではないか。


そんなことを思い、窓から入る風を感じながら夕涼みする5月の終わり。

「ああ、今年の夏も空に虹をたずさえ父はやって来てくれるのだろうか」なんて、十年以上たっても尚、祈りにも似た哀愁の意に不意に心撫でられ、フーっと長く呼吸してみた。

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