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連載日本史⑰ 大和政権(3)

593年、蘇我馬子のバックアップを受けて聖徳太子(厩戸王)が推古天皇の摂政に就任した。摂政は天皇に代わって実際の政務を取り仕切る実力者である。トップを象徴的存在として、ナンバーツーが実権を握るというパターンは、その後、日本の政治や組織運営に頻出することとなる。そういう意味では、聖徳太子は日本型組織のリーダーの元祖と言えるかもしれない。

聖徳太子像(「唐本御影」より)

聖徳太子の実績は多岐にわたるが、実施年代順に四点に分けて整理してみよう。第一に仏教の振興である。蘇我氏と血縁関係にあった太子は、蘇我馬子と同様、仏教推進派であった。摂政就任の翌年には三宝(仏教)興隆の詔を出し、607年には奈良・斑鳩の地に法隆寺を創建した。仏教の受容は、大陸からのさまざまな知識や技術の獲得という実利も伴っていた。この時期に、百済や高句麗の僧から、暦法や天文地理、紙・墨・絵具の製法などが伝わっている。

聖徳太子の業績(歴史人.comより)

第二に官僚機構の整備である。603年、太子は冠位十二階を制定し、官僚の序列と昇進のシステムを明示した。前代の臣や連が豪族たちの勢力地盤に基づいたものであったのに対し、冠位十二階は天皇を頂点とした中央集権型の官僚序列をより明確に示すものであった。有力豪族たちの権力を中央に吸収するためには、彼らを官僚機構に取り込み、昇進というインセンティブを与えて競わせる仕組みが必要だったのだろう。このシステムもまた日本の官僚機構の原型となり、バージョンアップしながら後世に引き継がれていった。

十七条憲法(waraukuruimi.comより)

第三に国家の基本原理としての憲法の制定である。604年、太子が制定した十七条憲法の第一条は「和を以て尊しと為し…」というフレーズで始まる。仏教の尊重、天皇への服従、地方豪族の勝手な税の徴収の禁止などの項目が並び、最後の第十七条には「独り断(さだ)むべからず。必ず衆と論(あげつら)ふべし」という文言がある。天皇中心の集権国家を構想しながらも、独断ではなく合議を重んじる意思決定を国家運営の基軸とする姿勢が見えてくる。周到な根回しと会議の多さ。これもまた日本の組織運営の原型と言えよう。

遣隋使の派遣(「山川日本史図録」より

第四に、中国との外交である。607年、太子は小野妹子らを隋に派遣した。隋の煬帝に奏上した国書には、「日の出づる処の天使、日の没する処の天子に送る」とあった。前代までの朝貢外交とは異なり、対等な立場での外交を試みたものであろう。国書を受け取った煬帝は激怒したが、隋との国交は継続し、留学生たちも海を渡った。当時、隋は高句麗と敵対関係にあり、日本との関係を良好に保つ必要があったこと、大運河の建設や外征の無理がたたって、隋王朝そのものが衰退に向かいつつあったことを見越しての強気の外交姿勢であった。事実、618年には隋は滅亡し、代わって中国には唐という大帝国が出現する。外交面でも太子には先見の明があったのだ。

天才的な政治家だった聖徳太子の遺した足跡は、後世にも大きな影響を与えた。622年、太子が死去すると、政権内での権力闘争が再燃する。蘇我馬子の直系である蝦夷・入鹿の親子 vs 中大兄皇子・中臣鎌足のコンビ。流血クーデターの惨事は間近に迫っていた。





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