水埜正彦

元高校教員(国語科)。1963年生まれ。定年退職後、兵庫県加古川市に住んでいます。

水埜正彦

元高校教員(国語科)。1963年生まれ。定年退職後、兵庫県加古川市に住んでいます。

マガジン

  • オリエント・中東史

    中東史の連載記事です

  • 自作の歌について解説したものです。音源はyoutubeでお楽しみ下さい。

  • トピック

    近況報告や雑多な記事をまとめたものです。

  • 石垣りんと戦後民主主義

    2023年に詩人会議新人賞佳作を受賞した評論です。

  • トマトと楽土と小日本 ~賢治・莞爾・湛山の遺したもの~

    2021年に石橋湛山平和賞を受賞した論文の再掲です。長いので何回かに分けて連載します。おつきあい頂ければ幸いです。

最近の記事

オリエント・中東史㉛ ~青年トルコ革命とバルカン危機~

1878年の露土戦争終結に伴うベルリン条約によって、オスマン帝国領であったバルカン半島のルーマニア・セルビア・モンテネグロの三国が独立した。もともとこの地域にはゲルマン系の民族とスラブ系の民族が混在しており、半島への勢力拡大を狙うオーストリア・ハンガリー帝国はパン・ゲルマン主義を唱えて前者を、ロシアはパン・スラブ主義を唱えて後者を支援した。いずれも現地住民のためというよりは、自国の領土拡大をもくろんでのことである。オスマン帝国が衰退し、その支配が緩んだことで、民族対立とそれを

    • オリエント・中東史㉚ ~

      1869年、フランス人レセップスが主導して開削を進めたスエズ運河が、10年にわたる難工事を経て開通した。地中海と紅海を結び、東西航路に革命的な効率化をもたらした運河の開通だったが、一方でその開削の過程には、多くのエジプト農民の無償労働と2万人にも及ぶ死者の累積があった。しかもエジプトは運河建設の資金調達のために発行した外債の支払いのために財政破綻し、運河経営の主導権は株式買収の形でエジプトからイギリスへ移り、結果的に英国によるエジプトの半植民地化を促進することになった。こうし

      • オリエント・中東史㉙ ~アフガン戦争~

        ロシアの南下政策と欧米列強の帝国主義植民地政策に振り回された19世紀の中東。文明の十字路と呼ばれたアフガニスタン地域は、その地政学的条件から英国とロシアの露骨な利害対立の舞台となった。18世紀にはイランからの独立を果たしていたアフガン王国は、19世紀に入って王朝交代があり、政情不安定となった。南下を狙うロシアを牽制し、植民地インドでの権益を守るために、1868年、イギリスはアフガン王国へと出兵する。抵抗するアフガン王国軍との間で3次にわたる戦闘が繰り広げられた。アフガン戦争で

        • オリエント・中東史㉘ ~カージャール朝~

          オスマン帝国が衰退に向かっていた18世紀から19世紀にかけてイランでも王朝の交代による混乱があった。1736年にはサファヴィー朝のシャーを退位に追い込んだトルコ系軍人のナーディル・シャーがアフシャール朝を開いた。アフシャール朝はシーア派のウラマー(神学者)を追放し、スンニ派イスラム教を国教としたが政治は安定せず、戦乱で国土は荒廃し、民衆は王朝を支持せず、シーア派の信仰を保った。1747年にナーディルが殺害され、アフガニスタンにはアフガン人初の王朝であるドゥツラーニー朝が自立し

        オリエント・中東史㉛ ~青年トルコ革命とバルカン危機~

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        • オリエント・中東史
          30本
        • 22本
        • トピック
          8本
        • 石垣りんと戦後民主主義
          5本
        • トマトと楽土と小日本 ~賢治・莞爾・湛山の遺したもの~
          9本
        • 中国史
          60本

        記事

          オリエント・中東史㉗ ~オスマン帝国の改革~

          19世紀初頭、オスマン帝国の改革に取り組んでいたセリム3世が守旧派勢力によって殺害された。代わってスルタンとなったマフムト2世は、その遺志を継いで帝国の近代化に着手する。市民革命・産業革命を経て近代化を進めつつあった欧米に倣い、中央省庁を整理再編して行政改革を行い、スルタンを凌ぐ実権を握っていた大宰相の権限を縮小した。外交面では西洋各国に常駐の大使館を置き、若手の官僚や軍人を派遣して西洋の制度を学ばせ、人材育成を図った。また、初等教育から中等教育につながる教育システムを整備し

          オリエント・中東史㉗ ~オスマン帝国の改革~

          オリエント・中東史㉖ ~オスマン帝国の衰退~

          16世紀前半、スレイマン1世の下で全盛期を迎えたオスマン帝国は、彼の死後、1571年のレパントの海戦でスペインのフェリペ2世が誇る無敵艦隊をはじめとした欧州連合艦隊に敗れはしたが、16世紀末までは概ね安定した治世を保った。帝国が衰退の兆しを見せ始めるのは17世紀に入ってからである。内政面ではスルタンに代わって宮廷出身の軍人が大宰相として実権を握るようになり、権力闘争が激化した。対外的には東隣のイランでシーア派サファヴィー朝がアッバース1世のもとで最盛期を迎え、オスマン帝国に敵

          オリエント・中東史㉖ ~オスマン帝国の衰退~

          オリエント・中東史㉕ ~オスマン帝国の興隆~

          13世紀のアナトリア(小アジア)はセルジュク朝の地方政権であるルーム・セルジュク朝の支配下にあったが、十字軍の侵攻を受けてその支配が揺らぎ複数の有力者がベイ(君侯)を称して抗争するようになった。そのひとりがオスマン・ベイである。オスマンは1299年にトルコ人のイスラム戦士集団であるガーズィーを率いて独立。西方のビザンツ帝国領を侵食しながら、バルカン半島へと勢力を拡大していった。14世紀半ば、3代目ベイのムラト1世はアドリアノープルを攻略してエディルネと改称し、帝国の首都とした

          オリエント・中東史㉕ ~オスマン帝国の興隆~

          オリエント・中東史㉔ ~サファヴィー朝~

          ティムール朝の衰退によって混乱が続いていた15世紀末、イラン地域でイスラム教の神秘主義を奉じるサファヴィー教団が台頭。その指導者であるイスマーイールが1501年にアゼルバイジャンを制圧し、その後10年の間に全イランを支配下に収め、イスマイール1世として初代シャー(国王)となり、イラン初のシーア派国家であるサファヴィー朝を建国した。 マホメットの正統な継承者としてのイマームの存在を信じるシーア派は、結果としてスンニ派のカリフの権威を否定することになるため、同じムスリム間でも反

          オリエント・中東史㉔ ~サファヴィー朝~

          オリエント・中東史㉓ ~ティムール朝~

          14世紀に入り、膨張しすぎていたモンゴル帝国の解体が進んだ。中央アジアのチャガタイ・ハン国は東西に分裂し、モンゴル系と融合したトルコ系民族のイスラム化が進んだ。そんな中で、西チャガタイ・ハン国から出たモンゴル系部族出身のティムールが、トルコ系遊牧民の軍事力とオアシス定住民の経済力を統合して1370年に自立。西チャガタイ・ハン国、イル・ハン国、キプチャク・ハン国を次々と併合し、現ウズベキスタンのサマルカンドを都として、中央アジアから西アジアに跨る大帝国を一代で築き上げたのである

          オリエント・中東史㉓ ~ティムール朝~

          オリエント・中東史㉒ ~イスラム文化~

          イスラム文化は、オリエントの地で古くから発展したメソポタミア・エジプト・ヘレニズムの文化的基盤の上に、イスラム教とアラビア語が融合して成立したものである。中心となった都市はメソポタミアのバグダードとエジプトのカイロであり、イスラム商人の交易ネットワークによって、北アフリカや中央アジア、インドや東南アジアなど、広範囲へと広がっていった。主だった都市にはムスリムの研究機関であるマドロサ(学院)が設立され、先進的な学問研究や技術発展の成果もまた、都市間のネットワークを通じて各地へ伝

          オリエント・中東史㉒ ~イスラム文化~

          オリエント・中東史㉑ ~イル・ハン国とナスル朝~

          13世紀初頭にチンギス・ハンがモンゴル高原に興した大帝国は、瞬く間に中国北部・中央アジア・東トルキスタンへと版図を広げ、イラン高原にも侵攻した。遊牧民族ならではの騎馬主体の強大な軍事力に加え、草原の移動生活で培われた機動性もあって、モンゴル勢はユーラシア大陸を席巻し、征服地に次々と自らの国家を樹立したのだ。モンゴル高原の都カラコルムにはチンギスの後継者であるオゴタイ・ハンが君臨し、グュク、モンケを経てフビライが大ハンの地位を得て中国にも支配を拡げ、元を建国する。ロシアにはチン

          オリエント・中東史㉑ ~イル・ハン国とナスル朝~

          オリエント・中東史⑳ ~ムワッヒド朝とマムルーク朝~

          オリエントでイスラム世界と十字軍の戦いが繰り広げられていた12世紀、北西アフリカのモロッコではイスラム神秘主義の影響を受けた定住ベルベル人によるムワッヒド朝がムラービト朝を滅ぼし、マグレブ(モロッコ・アルジェリア・チュニジア)地方を統一した。バグダードのカリフの権威を認めず独自のカリフを建てたムワッヒド朝は、イベリア半島にも進出した。これに対してローマ教皇インノケンティウス3世は、13世紀初頭、キリスト教諸侯に対してイベリア半島への出兵を呼びかけた。オリエントでサラディンによ

          オリエント・中東史⑳ ~ムワッヒド朝とマムルーク朝~

          オリエント・中東史⑲ ~サラディンとアイユーブ朝~

          十字軍にエルサレムを奪われたイスラム世界では、セルジュク朝の衰退に乗じて、1127年にイラク北部からシリアにかけての地域においてザンギー朝が自立。1144年に十字軍国家の一つであるエデッサ伯国を滅ぼし、第2回十字軍をダマスクス攻防戦で撃退して、シリア統一を果たした。エジプトの制圧をも視野に入れ、ザンギー朝は北アフリカのファーティマ朝に宰相を派遣する。この時、当初の宰相が急死したことによって思いがけず宰相の地位を手に入れたのが、ザンギー朝の若きクルド人部将であったサラーフ・アッ

          オリエント・中東史⑲ ~サラディンとアイユーブ朝~

          オリエント・中東史⑱ ~十字軍とイスラム諸王朝~

          11世紀に入っても、イスラム世界の分裂と諸王朝の興亡は続いた。中央アジアにはトルコ系のカラ・ハン朝、アフガニスタンには同じくトルコ系のガズナ朝、イランからメソポタミアにかけてのバグダードを含む中央部には1055年にブワイフ朝を倒したセルジュク朝が君臨した。ブワイフ朝はイラン系のシーア派政権だったが、セルジュク朝はトルコ系のスンニ派政権であり、宗教的権威としてとどまっていたアッバース朝カリフから、世俗的権力の執行者であるスルタンの称号を受けた。ヨーロッパのキリスト教世界では、宗

          オリエント・中東史⑱ ~十字軍とイスラム諸王朝~

          オリエント・中東史⑰ ~イスラム帝国の分裂~

          ハールーン・アッラシードの死後、9世紀から10世紀にかけて、帝国の分裂は急速に進んだ。東部ではペルシア以来の文化的伝統を持つイラン民族や軍事面で高い能力を持ったトルコ民族が台頭した。もともとは中央から派遣された各地のアミール(総督)が自立し、地方政権が林立したのである。北アフリカでは、チュニジア発祥のファーティマ朝がエジプトにも進出し、新都カイロを建設した。ファーティマ朝はシーア派の分派であるイスマーイール派を信奉し、初代アブドッラーはスンニ派のアッバース朝に対抗してカリフを

          オリエント・中東史⑰ ~イスラム帝国の分裂~

          オリエント・中東史⑯ ~アッバース朝~

          750年にアブー・アルアッバースがウマイヤ朝を打倒して樹立したアッバース朝は、ウマイヤ朝のアラブ人至上主義を廃し、非アラブ人の改宗者(マワーリー)への人頭税(ジズヤ)課税やアラブ人の地租(ハラージュ)免除特権を廃止し、民族を問わず全てのムスリムに平等の税制を確立した。イスラムに改宗しない者については、イスラム教と同じ神を信じる啓典の民としてキリスト教徒とユダヤ教徒に限って信仰の自由を認めたものの、彼らへのジズヤは継続した。また、官僚機構や法制度も整備し、他民族にも統治階級への

          オリエント・中東史⑯ ~アッバース朝~