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オリエント・中東史㉕ ~オスマン帝国の興隆~

13世紀のアナトリア(小アジア)はセルジュク朝の地方政権であるルーム・セルジュク朝の支配下にあったが、十字軍の侵攻を受けてその支配が揺らぎ複数の有力者がベイ(君侯)を称して抗争するようになった。そのひとりがオスマン・ベイである。オスマンは1299年にトルコ人のイスラム戦士集団であるガーズィーを率いて独立。西方のビザンツ帝国領を侵食しながら、バルカン半島へと勢力を拡大していった。14世紀半ば、3代目ベイのムラト1世はアドリアノープルを攻略してエディルネと改称し、帝国の首都とした。彼はスルタンを自称し、皇帝直属軍のイェニチェリを新設して軍制改革を行うとともに、拡大する領土に応じて中央集権型の国家体制を整えていった。セルビア、ブルガリアなどにも侵攻したムラト1世は1389年のコソボの戦いでキリスト教国連合軍を撃破したが、その直後に死亡。バルカン半島の征服事業は次代のバヤジット1世へと継承された。

1396年、バヤジット1世はドナウ河畔のニコポリスの戦いでキリスト教国連合軍を撃破。ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに迫った。だが、中央アジアから西アジアへと勢力を拡げたティムールがアナトリアに進出。それを迎え撃ったバヤジットは1402年のアンカラの戦いで敗れて捕虜となり、オスマン帝国は壊滅の危機に陥ったのである。ティムールが東方の中国(明)へと攻撃の矛先を転じたので、帝国は辛うじて滅亡を免れたが、再興までに50年近くを要することとなる。

オスマン帝国の再興を決定づけたのは、第7代スルタンとなったメフメト2世である。「征服者」の異名を持つメフメトは1453年にコンスタンティノープルを攻略し、ビザンツ帝国を滅ぼした。東西分裂以降1000年以上続いた東ローマ(ビザンチン)帝国の滅亡は、ヨーロッパのキリスト教世界に大きな衝撃をもたらした。この時、ビザンチン帝国から多数のギリシア人学者がフィレンツェに亡命。これがイタリアのルネサンス促進へとつながったのだ。一方、イベリア半島ではスペイン・ポルトガルによる国土回復運動(レコンキスタ)が最終局面を迎え、1492年にナスル朝の首都グラナダが陥落。以後、半島からイスラム勢力が一掃され、ヨーロッパとアフリカ大陸を隔てるジブラルタル海峡がキリスト教世界とイスラム教世界の境界線として確定する。

コンスタンティノープルをイスタンブールと改称して帝国の新首都としたメフメトは、ムスリム以外の異教徒を、ギリシア正教徒・アルメニア教会派・ユダヤ教徒の3つのミレット(宗教共同体)に組織し、貢納の義務と引き換えに、彼らの固有の信仰や自治を認めた。こうした寛容的な宗教文化政策はオスマン帝国の伝統となり、後に「柔らかい専制」と呼ばれるようになる。

バルカン半島のほぼ全域を支配下に収めたメフメトは、アナトリアから黒海北岸のクリミア半島にまで版図を拡大した。その後、第9代スルタンのセリム1世は、西方へと勢力を拡大しつつあったサファヴィー朝のイスマーイール1世の軍を撃破し、1517年にはマムルーク朝を滅ぼしてシリアのダマスクスからエジプトのカイロに至る交易ルートを抑え、メッカ・メディナの2大聖地の保護権も手に入れた。ここにおいてオスマン帝国はスンニ派イスラム教の宗主国としての地位を確立したのだが、一方で東隣のシーア派国家であるサファヴィー朝の存在に脅威を感じたセリム1世は、国内のシーア派を厳しく弾圧した。異教徒に対して寛容であったオスマン帝国も、同じムスリム内での対立宗派には非寛容だったわけだ。こうしたところにも、政治と結びついた宗教政策の矛盾が表れていると言える。

次いでスルタンとなったスレイマン1世の時代に、帝国は全盛期を迎えた。ベオグラードを攻略してハンガリー進出の足掛かりを築いた彼は、東地中海で海賊活動を行っていたロドス島の聖ヨハネ騎士団を駆逐し、海上の交易ルートを確保した。聖ヨハネ騎士団はマルタ島へと本拠地を移して抵抗を続けたものの、東地中海でのオスマン帝国の優位は決定的となった。1526年のモハーチの戦いで勝利してハンガリーをも支配下に収めたスレイマンは、1529年にはハプスブルグ帝国の首都であるウィーンを包囲。神聖ローマ帝国皇帝カール5世を圧迫し、欧州キリスト教世界に大きな脅威を与えた。1538年にはプレヴェザの海戦でスペイン・ヴェネチア・ローマ教皇の連合軍を撃破して東地中海を制圧。一方でハプスブルグ家と敵対するフランスのブルボン朝と手を組み、後のカチチュレーションの原型となる通商上の特権を与えた。敵の敵は味方というわけである。東に向けてはバグダードやアゼルバイジャンからサファヴィー朝の勢力を一掃し、アラビア半島南端のイエメンも制圧して紅海・アラビア海・ペルシア湾各地の東方貿易の要衝をおさえた。アナトリアとバルカン半島を中核として、北はハンガリーからクリミア半島、東はメソポタミアからアゼルバイジャン、南はアラビア半島やエジプト、西はマグレブに至るまでの北アフリカ一帯と、現代の国でいえば26カ国にも及ぶ巨大な帝国が出現したのである。

「立法者」の通称を持つスレイマンは、法制や行政機構などの整備にも力を注いだ。後のティマール(知行)制の基礎となる検地を実施し、税制や行政機構を整備して州制度に基づく中央集権制を確立し、貨幣経済の拡大による通商の活性化も促進した。オスマン帝国が東方貿易の要衝となる地域を掌握したことは欧州諸国の新航路開拓への誘因となり、強大なムスリム専制国家の脅威に対する危機感は欧州諸国の中央集権化を促すことになった。極論すれば、オスマン帝国があったからこそヨーロッパの近代化が進んだとも言えよう。

文化面では、スレイマン1世は建築家のミマーリ・シナンに命じて、首都イスタンブールにトルコ・イスラム文化建築の粋と言われるスレイマン・モスクを建設させた。スレイマン・モスクは、ビザンチン建築様式の代表的存在であったハギア・ソフィア聖堂をモデルとして、ドームと半ドームを組み合わせた幾何学的な美を実現し、後世のモスク建築の範とされた。一方、ギリシア正教の教会で合ったハギア・ソフィア聖堂はイスラム教寺院へと改装され、4本のミナレット(尖塔)が付け加えられた。両者とも現在のイスタンブールの象徴となっているが、それは同時に、「柔らかい専制」のもとで、14世紀から20世紀初頭に至るまで、600年にもわたって存続した多民族・多文化国家としてのオスマン帝国の象徴でもあるのだ。
 

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