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オリエント・中東史㉔ ~サファヴィー朝~

ティムール朝の衰退によって混乱が続いていた15世紀末、イラン地域でイスラム教の神秘主義を奉じるサファヴィー教団が台頭。その指導者であるイスマーイールが1501年にアゼルバイジャンを制圧し、その後10年の間に全イランを支配下に収め、イスマイール1世として初代シャー(国王)となり、イラン初のシーア派国家であるサファヴィー朝を建国した。

マホメットの正統な継承者としてのイマームの存在を信じるシーア派は、結果としてスンニ派のカリフの権威を否定することになるため、同じムスリム間でも反目しあうことが多い。イランにシーア派国家が誕生したことは、周辺のスンニ派国家の脅威となった。東隣のインドにはティムールの子孫が建てたムガル帝国、北東にはティムール朝を滅ぼしたシャイバニ朝、そして西隣にはティムールによって壊滅的な打撃を被りながらも再興を遂げてビザンチン帝国とマムルーク朝を滅ぼし、バルカン半島・アナトリア・メソポタミア・北アフリカへと版図を拡げたオスマン帝国があった。いずれもスンニ派のイスラム教国である。

1514年、オスマン帝国のセリム1世は大軍を率いてイランに遠征。サファヴィー朝の首都タブリーズ近郊のチャルディランの戦いで両者は激突し、鉄砲で武装したオスマン軍のイェニチェリ軍団(皇帝直属の新兵団)がサファヴィー朝軍を打ち破った。危機に陥ったサファヴィー朝を再建したのが、16世紀末にシャーとなったアッバース1世である。彼は皇帝直属の親衛隊や常備軍を育成し、鉄砲を中心とした軍事力の再編に取り組み、側近を各地に派遣して中央集権体制の整備に努めた。アゼルバイジャンやイラクをオスマン帝国から奪ったアッバース1世は大航海時代を背景に中東に進出してペルシア湾入り口のホルムズ島を占領していたポルトガル勢力を駆逐し、1623年には一時バグダッドを占領するまでの勢いを見せた。経済面でも交易を促進し、絹織物やペルシア絨毯は重要な輸出品となり、彼が造営した新都イスファハーンは中東地域の交易・文化の中心として、「世界の半分」を称されるほどの繁栄を見せた。

サファヴィー朝最盛期を築いたアッバース1世の死後、王朝は次第に衰退し18世紀にはアフガンからの侵攻によって滅亡するが、多数派のスンニ派国家に囲まれながら少数派のシーア派国家として綴ってきたサファヴィー朝の歴史は現在のイランにも受け継がれ、その文化の独自性を保っている。イスファハーンに残る王のモスク(イマームのモスク)は透き通った青のタイルで装飾された美しいドームを保ち、イランの歴史と文化の象徴となっている。

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