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オリエント・中東史⑯ ~アッバース朝~

750年にアブー・アルアッバースがウマイヤ朝を打倒して樹立したアッバース朝は、ウマイヤ朝のアラブ人至上主義を廃し、非アラブ人の改宗者(マワーリー)への人頭税(ジズヤ)課税やアラブ人の地租(ハラージュ)免除特権を廃止し、民族を問わず全てのムスリムに平等の税制を確立した。イスラムに改宗しない者については、イスラム教と同じ神を信じる啓典の民としてキリスト教徒とユダヤ教徒に限って信仰の自由を認めたものの、彼らへのジズヤは継続した。また、官僚機構や法制度も整備し、他民族にも統治階級への門戸を開いたので、イラン人やトルコ人などの非アラブ系の官僚も見られるようになった。2代目カリフのマンスールの時代には新都バグダードが建設され、政治・宗教・商業の一大中心地として繁栄した。後にアラブ帝国と呼ばれたウマイヤ朝のアラブ民族偏重統治に対して、アッバース朝は名実ともにイスラム帝国と称せられる多民族国家となったのである。

ただしアルアッバースは、建国当初にはシーア派の力を借りたものの、権力を掌握すると弾圧に転じ、多数派のスンニ派による支配を明確にした。異教徒よりも同じ宗教の他宗派への弾圧の方が厳しいというのは道理に合わない気がするのだが、近いからこそ、似ているからこそ、その違いが許せないものに見える、というのは、今も昔も、宗教対立や民族対立の根底に存在する人間心理の理不尽な傾向なのであろう。

アッバース朝の支配地域は、756年に建国された後ウマイヤ朝の支配下となったイベリア半島を除き、ほぼウマイヤ朝時代の領土を継承した。751年には中央アジアのタラス河畔で唐帝国の軍を打ち破ったが、領土拡張はそれ以上進むことはなく、イスラム帝国としての一体性に基づく内政重視の統治が行われるようになった。この点も、際限のない拡大政策に走ったウマイヤ朝とは対照的である。

8世紀後半から9世紀になると、カリフはムハンマドの後継者というよりは、神の代理人と位置付けられるようになる。アッバース朝第5代のカリフとなったハールーン・アッラシードは、卓越した統治能力でアッバース朝の最盛期を築くとともに、多くの芸術家を保護し、バグダードに「知恵の宝庫」と名付けた学術センターを建設し、アレクサンドリアのムセイオンに所蔵されていたギリシア語文献をアラビア語に翻訳させて、ヨーロッパと中東の文化を結び付けた。彼の事業は次代のカリフとなったマームーンが建設した「知恵の館」にも継承され、バグダードは文化的にも、当時の世界の一大中心地となった。自然科学や医学の発展もめざましく、この時代に全盛を迎えたイスラム文明は、世界最先端の多彩な文化を誇ったのである。アラジンやアリババ、シンドバットなど、おなじみの登場人物たちが活躍する「千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)」も、この時代に成立している。

アッラシードの死後、後継者争いや地方政権の自立などにより、アッバース朝は次第に分裂状態に陥っていくが、それでも13世紀のモンゴル軍の侵攻によって滅ぼされるまで500年近くにわたって存続した。短命に終わったウマイヤ朝に比べて、かなりの長期にわたって中東地域の統治を保ち得たのは、やはり多民族の共存を前提とした税制・法制度・官僚機構の一貫した整備と領土拡張を抑えた堅実な内政政策、それに加えて開放的な文化政策が功を奏したと言えるだろう。それは現代においても、安定した統治のための必要条件だと言えるのではなかろうか。

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