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循環

ひとり在ることの祝福と矜持、ひとり居ることの試煉と孤独を、一層身に沈めている深海の魚たち。澱と重みを一身に引き受け、骨を折る、かれらの骨を、一体だれが拾うのか。
深層の海流に乗るというよりは、その潮流を身のうちに通し、もはや流れそのものでもある深海の魚たちは、おそらく、われわれの血潮のなかにも、同じくしてめぐるだろう。

行き場のない思いは、墓場のない思いだろうか。ならば、いまこそ、ここで、弔う。わが身を、その墓場とする。静寂を呼びこみ、鎮魂を招く。
いかなる思いも光として受けとられ、光として返される高次の循環を、透明な現前に在らしめる。

はじめから空の底であるとはいえ、空から空が落ちてきて、ここも空になるならば、空(くう)なる空は、いかなる重みも軽みへと変えるだろう。
そのとき、われわれは、軽けきものほど、宇宙の深みへ昇りゆくという転換を、目の当たりにするだろう。

在ると居る、吐くと吸う、読むと書くとは、並列でありながら、流れでもある。在ればすなわち居るのであり、吐かれればおのずと吸われる。
真に読む者は、読まずにはいられない詩をみずから詠む。ひとりでに生まれる歌を詠う。
それは、たったひとりのための、たったひとつのことばである。さびしみのなかのなぐさみである。深みという高みからの呼び声である。

流れは本来、かたよることも、とどまることもない。平静な呼吸に立ちかえるとき、身のうちの鼓動を卑近に感じ、血潮の潮流も感じられる。それは、驚くほどに力強い奔流である。
血に、地に、智に、霊に、力はひそむ。無尽蔵に蔵されつつ、流れている。ちからとは、血から、地から、智から、霊から流れくる、底知れぬ底流である。


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