山師が、小さな火を灯し、声を潜めて話すのを、地元民の野次馬の一人として、うんうんと頷きながら聴いていた。 驚いていた。 おそれもあった。 それは、山師の語っている「事故」に、実は、わたしも一枚噛んでいるからだった。 あたりの闇が一層濃くなり、襲ってくるように感じられた。 罪悪感に苛まれた。 「託言を伝えただけ」と言えば、それまでにすぎない。 しかし、伝えた男が、死んだ。 その託言を、山師は、一言一句、たがわず言った。 どこで、どうして、知ったのだろう。 おそろしかった
大輪の花。 まさに大輪。 ひとの頭ほどの大きさの蕾が、少しずつ綻び、馥郁とした香りが漂い始めていた。 大切に育て、咲くのを楽しみにしていた。 いよいよ咲くのだ。 美しく咲くのだ。 心が高揚するのを感じていた。 ところが…… 老いて呆けた母、車椅子の母が、いつの間にか、庭から、花を無造作に引っこ抜いてきていた。 それだけでも絶句したのだが、さらには母は、空気入れのようなもので、茎の口から空気を押し込むようにして、無理やり花を咲かせようとしていた。 「そんなことでは咲かな
「りーん」 澄んで、通る音がした。 わたしには「りーん」と聞こえた。 あるいは、「チーン」と聞こえる音なのかもしれない。 「りんちゃん」 今度は声がした。わたしの名を呼ぶ声。初めて聴く声。低く抑えた、おじさんのダミ声。 わたしは、半畳のタバコ屋の天井裏から静かに降りて、おじさんの前に姿を現した。 おじさんは、濃茶のニット帽に、深い皺の刻まれた日焼け顔、ごま塩の無精髭、軍手をつけた大きな手、グレーの作業服の上に、紺色の上着、靴は泥にまみれた黒のゴム長。 着古した服と、酷使
おばあさんの魂は、翡翠色の魚だった。 傍らには腑抜けているおばあさんがいた。 腑抜けてはいても、ガラス玉のような澄んだ眼をしていた。 その眼は、魚の眼と奥行が同じだったから、これが、このおばあさんの魂なのだと、すぐにわかった。 翡翠色の魚(魂)は、堂々とした風采の、中年の女性の両手のなかで、いやいやをするように、ぴちぴちと跳ねていた。 初めは、魚ではなく、鳥の翡翠(カワセミ)だと思った。 鱗が羽毛のように、ふさふさ、というか、ごわごわとして見えたのだ。 でも、もしかした
また殴られるのか、と思った。 殴られるときのイメージが、瞬時に湧いた。 まず、衝撃と痛みで、意識が飛ぶ。 涙は、心というよりは、身体反応。 鮮血の流血は、汚いと罵られる。 その後には、紫の打撲痕。 風が吹いても痛む。 魂は、じりじりと削られる。 ∞ しかし、そのとき、わたしは身構えなかった。 殴るなら殴ればいいと、むしろ身を投げ出した。 丸腰のまま、すっくと立った。 それもまた、相手を逆なでしたらしい。 当然、ぼこぼこに殴られた。 血がにじむどころか、血を吐くまで、顔
先に月へ帰っているね うさぎは一瞥の瞬きで伝えた 羽毛に包まれていた脈動は 躍動となり翔けていった 期せずして与えた熱で われもいつかは孵される いつかは月へ還される
こつこつこつこつ。 初めは、時計の秒針かと思った。 しかし、秒針にしては不規則である。 ぶるぶるぶるぶる。 いや、スマートフォンのバイブレータだろうか。 いいや、それにしては激しい。 かばんのなかを探ると、すぐ触れた。 音源は、手のひら大の卵だった。 殻が薄っすら透けていた。 透けすぎて、内側から発光するように見えた。 ぐるぐるぐるりん。 なかのものが動いた。 生きている! ギョッとした。 ん、これは、いつからあったんだ? 一体、何の卵なんだ? 殻の内側でバタつく
翼をなくし 空を降りた者たちは おおむかし 風とともに風を熾し 世界中を翔けていた 鱗をなくし 水を捨てた者たちは おおむかし 一身に光をあつめ 水面を煌めかせていた あれが わたしだったの あの空は 風は 水は 光は わたしだったの この砂は そのほんのひとかけら いつか砂になることが そのあかし おもわず天を仰ぎ おのずと水平線を眺むのは 懐かしいからなのでしょう 世の美しさに寄与していた あなたも いつか そうだった 波打ち際 肩を並べて歩むあなたが 誇らしげに
てのひらのなか すこしの重みも感じなかった そのことがむしろ怖かった 上下する胸をじっと見つめた それは はじめは荒く 次第に静かになっていった いのちが透けて見えると思った 目やにと吐瀉物にまみれていても 闇夜に同化しそうなほどの漆黒の毛並みは 何にも代えがたく美しかった 焦点の合わない眼は さいごまで澄んでいた 仔猫の名は 死後 つけた 以太 戒名ではない いとおしく呼ぶためだった
霧の中 ヘルマン・ヘッセ 霧をさまよう 不可思議さ 寂寥とした 草と石 木々も互いを まなざせず すべてのものが ひとりきり 人生の明るい途上 世界は友で 満ちていた いまでは霧に 包まれて もはや誰にも まみえない まったくもって すべてから 抗いがたく ひっそりと ひとを隔てる あの闇を 知らない者は 聡くない 霧をさまよう 不可思議さ 人生はいかにも孤独 誰も互いに 見えわかず ひとしくすべて ひとりきり Im Nebel Hermann Hesse Sel
秋 ライナー・マリア・リルケ 葉が落ちる 遠くから降るかのように はるかな天の園が枯れたかのように 否々をしながら落ちてくる そして夜々 重い地が落ちる 星々から 孤独のなかへ 我々は皆落ちる この手も落ちる みてごらん すべてのものに落下がある それでも ただ一人 この落下を 際限なく深く切に 両手に受ける者がいる ∞ Herbst Rainer Maria Rilke Die Blätter fallen, fallen wie von weit, als
ひとに罪悪感を植えつける罪も重い その悪は深い ひとを真に裁けるのは ひとではない 天はすべてをみている ひとしくみている
「薄皮一枚隔てた先の震えを感じろ」 (いや、ありありと感じている) 「ものの背後の慄きを見よ」 (いや、とっくに見えている) これは、神の声なのだろうか。瀕死の何者かの声だろうか。 ∞ 私は考えあぐねていた。薄皮一枚隔てた先には、たしかに、瀕死の何者かが存在する。得体は知れない。 目には不明瞭。だが、指先から苦しみが伝わってくる。脈動が喘いでいる。 いますぐに、薄皮を破いて、救い出すべきだろう。しかしこの存在は、こちらの陽の目を見るほうが危ないのではないか、とも思う。
心は闇に匿われ 闇のなかでは開かれる 静寂を壊さぬように 流れる涙は あたたかい 涙を隠し温める熱がある 美しくはない しかし 醜いだけではいたくない 光のもとでは生きられぬ者も 生きてゆかねばならぬから 純化を 僅かでも醇化を 切ない願いをこぼしても 朝露の如 霧散する
赤子の寝息を 降りつむ雪を 揺れる焚き火を まなざす者であるとき わたしはわたしなのだろうか もっともわたしであるとも思えるが ふれるなら静かなそれらを乱しうる 静寂のなか開いて閉じて おのが手をじっと見る
名はいとおしく呼ぶための分節 最も短いあなたなる詩