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エッセイ「勝者・五十鈴川」

 小雨の「五十鈴川(いすずがわ)」は、聖水のスチームサウナだ。大気と小雨と川が、湿度のグラデーションになっていて、川辺に立つとその中にすっぽり入ったような感覚になる。聖水がナノレベルで体に浸透していくのは、かき氷にせんじシロップが吸い込まれていくようで心地いい。

 「五十鈴川」は、伊勢神宮の内宮の入口にあり、昔の人はここで体を清めてからお伊勢さんにお参りをした。まさに「聖水」なのだ。川の水に手を入れると、どんどん体内の透明度が増していき、日頃のくだらない欲やエゴが浄化され、こころもすっきりしてきた。癒されながら視線をのばすと、水面が翡翠色の蜃気楼のようにけぶっているのが神々しい。

 さすがの伊勢神宮も、雨だと空いていた。外国人観光客が戻ってきた昨今、こんなに劇的に空いているのはラッキーすぎる。
 私は、自他共にみとめる晴れ女だ。出かける時はほとんど晴れるので、日焼け止めは入念にする。雨の予報でも、現地に着くと晴れ間がでるくらい太陽がストーカーなみに追っかけてくるのだ。それがどうだ、駅に降り立った時から小雨が降っている。いっこうに上がる気配さえないこのお天気は「我が家の今夜のメニューはなんと!すき焼です」くらい珍しい。
 ―どうして今日だけ雨なのだろう―と思いながら、濡れて滑りやすくなっている川辺のミドリガメの甲羅のような岩盤の上を、そろりそろりと歩く。本当はお気に入りのグリーンのワンピースが着たかったのだが、用心のために足回りのいい麻綿の地味なベージュのパンツに変更し、せめてブラウスは若く見えると評判のオレンジのレース地を合わせたのは正解だった。こんなところで転んだら、私がミドリガメになってしまうどころか、大けがをして周りに迷惑をかけてしまうお年頃だからだ。

 川辺に来る前に、本来の目的の『猿田彦神社』に先に参拝してきたのだが、それには理由がある。
 『三回やってきたら合図』というルールを採用してる。例えば、同じものや関係していることを、三回見たとか、聞いたとか、来たとかしたら、それは「自分に何かを教えてくれる合図だから選択する」というルールだ。
 一回目は、娘と買い物にでかけた時に「お母さん、猿田彦珈琲を買って欲しい」と言われたこと。聞いた時すぐに『猿田彦神社』を思い出したのだが、後で調べたら「猿田彦珈琲」の名前の由来は神社とまったく関係ないということで、関係ないんかい!と突っ込みを入れたくなった。二回目は、他の調べものをしていた時に、なぜか『猿田彦神社』が画面に上がってきた。そして、三回目は今回の行き先を検討していた時に、「あ、猿田彦神社」と直感を受け取ったことで―これは行くしかない―と目的地に決まったのだ。

それなら以前から気になっていた「五十鈴川」にも行きたいし、そこまで行くのなら内宮の「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」様に挨拶にいかないととルートに加えた。―猿田彦神社といえば、みちひらきの神で有名だ。―大学に入ったばかりの私が祈願するのにぴったり―と、なんだかわくわくして、同行してくれる先輩もゲットした。

『猿田彦神社』では、本殿にお参りした後に「方位石」を撫でる。「方位石」は、八角形の石柱で昔の神殿跡に建てられたもっともパワーが集中しているところで、その表面にけずられた「自分の干支」を撫でるとご利益をいただける、『猿田彦神社』に来たらこれを触らなくて何しにきたんだという石だ。「自分の干支」を撫でるというのが、またにくい。なんせ私は今年で還暦。十冠十二支を一周して戻ってきた年に、二周目の「自分の干支」を撫でるというのだからシンクロニティが半端ない。―これで学業のみちがひらくに違いない―と気分も高まり、よし次だと「おみくじ」を引いた。

結果は「吉」

“久しい間のくるしみも時が来ておのずから去り なにごとも春の花のさくように次第次第にさかえてゆく運です 安心してことにあたりなさい”
とのお言葉に「わかりました、がんばります!」と答え、すっかり上機嫌になった。

 そのままお昼ご飯を食べようと、おはらい町にある先輩おススメの「とうふや」さんに向かった。大通りから少し入ったところにある風情あるお店で、自家製とうふとあなご料理が名物だ。日本家屋の入口にかけられた大きな藍ののれんが、老舗感を醸しだしている。中に入ると「ちょうどお二階がご案内できますよ」と、女店員さんの威勢のいい声に促され、そのまま中二階の窓際の特等席に案内された。

 あがった途端に窓の外の景色が見えて「わあ、きれい……」と思わず声が出た。視界の正面に「五十鈴川」がぱーんと広がった。
 ―そうか、二階だから、上から川を一望できるんだ―。優雅に流れる懐の大きな川、左手前には雨のしずくが滴る新緑の木々、右側には軒下にかけられた白い大きな提灯、年輪を感じる木製の窓枠が額縁のようだ。外から入る爽やかな風を顔に受け止めたら、急に明治時代にタイムスリップしたようだ。

 運ばれてきた「とうふ御膳」に舌鼓をうっていると、先輩がこんなことを話し出した。「みんなさ、晴れるとお天気がよくてよかったねっていうけれど、そうかなあと思うんだ。晴れるだけがいい天気なのかって。結構、雨も好きなんだ、雨もいいんだよね。」 
 確かに、今日のような小雨は悪くない。雨が降ると世界はとたんに静かになるし、空気はしっとりして肌は若返る。植物たちは、生き生きとして嬉しそうで、葉っぱの上の水滴たちは踊っている。人出も少ないので、今日のようにゆったり過ごせて、この人気店もすぐに入れた。そんな会話の後に、「五十鈴川」の川辺に向かった。

 今回なぜ『猿田彦神社』だったのか、雨だったのかは、自宅に帰ってから理由がわかった。神社で気になってもらってきた小冊子「みちひらき」に掲載されている宮司さんの文章にその答えがあった。

 『神社では、神様にお供えしたものを戴くことを「おさがり」と表します。もう一つ、お正月に降る雨や雪のことも「おさがり」と呼ばれてきました。どうしても晴天を期待しがちですが、水はなくてはならない存在なので、それを神様からの「慈雨」ととらえ、くださりものに感謝をする気持ちがこの言葉には表れています。』
『わたしたち地球上に生きているすべてのものは、天照大御神の御心によって、この世界に生を受け、太陽や水といった自然の恵みを頂いて命を全うしています。それに対する感謝の気持ちを常に忘れてはいけないし、そのことを教えてくださるのが猿田彦大神です』

 つまりこういうことだ。お天気は神様からの「慈雨」であり、それを教えてくれるお役目が「猿田彦大神」である。おみくじでは「今歩きはじめた文芸の道は、方向性はあっているからがんばりなさい。ただし、日々すべてのことに感謝の気持ちを忘れずに精進すること、そうすれば、おのずと道は開けますよ。」という有難いアドバイスまでいただき、同行してくれた先輩は、何かにあやつられて「使い」をさせられたのではないかと疑うほど案内人として適任だった。―目に見えない有難い神様や目に見える温かい身近な人々に応援されて、本当にしあわせものだなあ―としみじみと感謝があふれてきた。
 ただ、今回もっとも私の心を掴んだのは、「猿田彦神社」ではなく『小雨の五十鈴川』だった。「とうふや」の二階の窓から見た時空を超えた絵画のような景色、川辺に立った時の聖水との一体感、水の中に入れた手から浸透する爽快感、そして幻想的な川面の世界……は、是非もう一度体験したい。

 ― 勝者! 五十鈴川  ― と、旗を上げた。

 天気予報を注意して、小雨の予報の時にもう一度行こう。そして、今度は「とうふや」で、もう一つの名物の「あなご料理」を食べよう。

「とうふや」さんはこちら↓
https://okageyokocho.com/main/tenpo/tofuya/


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