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隣の聖なる愛の伝説

真東にあるお向かいさんのお家は、こんもりと草木に覆われている。



この夏、回覧を回す時に気づいた。今夏も何人も亡くなられたが、最後に回ってきたそのかたはお向かいの奥さまだった。そういえば、いつも来ていた介護カーが来なくなった。葬儀は家族ですでに執り行い済みなので取り急ぎご報告と、町内の皆様への御礼をと。亡くなるとみんなそうだけれど。
そのお家はたまたま私の班ではなかったのでお話したことはなかったが、ひょんなことから繋がった。



週1、買い出しに行く時いつもうっとり眺めている山野草のたくさんある一角。植物をきっかけにそのNさんにお話を伺った。お向かいM家はそのN一族(私の猫&植物のお友達の別のN分家、は私の班の顔役である)の植物のマブダチらしく、話が行っていたのだ。


最近になってようやく少しずつ外に出てき始めたM家のご主人が過日、私を呼び止めて言った。
「Nさんから聞いたよ、植物が大好きな方がMさんの向かいのアパートに住んでるって。ウチは大したことはないけど、もし好きだったらいつでも見に来てね」



今日、買い物から戻った時見かけたので、荷物を置いてから声をかけに行ってみた。
人のよさそうなご主人はすぐにこやかに迎えてくださり、外仕事の手を止めて庭の奥へと誘ってくれた。



いきなり本格温室バーン。それも2棟バーン。専門店も裸足で逃げだす質と量を誇るエビネの鉢の数々。すごい!春になったら花で大変なことに…



絶句する私をご主人は構わず庭中案内してくれ、そこらじゅうの草木を教えてくれる。可愛いめだかの一群も。



でも
なんだろう。
草木は、魚たちは、少し悲しんでいるような感じがした。
ご主人が、ふと言った。
「家内がね。好きだったんだ」
胸が騒いだ。
「家内は可愛かったんだよ。よかったら、写真、見てやって」
そして家から大きく伸ばして額に入れた写真を三葉、持ってきてくれ…私は声を失った。



可愛いというレベルではない。
「あ、あの。この方は?」女優、それもスクリーンに出ていてもおかしくはない。いや、往年のスターでもこれほどの美貌の女性がいたかどうか。
ご主人は照れながら、有名な映画の撮影所に彼女がよく呼ばれていたり、大会社のポスターのモデルに呼ばれたりという逸話をしてくれたが…。



和製オードリー・ヘップバーンというか。清楚な麗人だった。多分、私は玄関先で10分は見惚れていたと思う。あまりにも美しい。この方が天女でなかったらなんなのだろう。今みたいに高度な撮影技術もコンピュータも精巧なメイク術もないことを考えたら。


ご主人は、散らかってて申し訳ないけどよかったら家内に会ってやってください、とお家に上がらせてくださった。
突然の不躾な訪問を詫びながら、仏前へ。
胸が詰まった。
仏壇の両脇に、抱え切れぬほどのとりどりの新鮮な薔薇。
香を手向け手を合わせているうち私は、涙を止められなくなった。



ご主人が、全身麻痺となった彼女を4年も自宅で介護し看取ったことも町内の方から聞かされてはいた。
ご主人はこの天女を愛した。愛した。
彼女が花を、草木を、生き物を愛すること甚だしく、生き物たちはなびき従うように彼女のもとに集まり、彼女を護らんばかりだったという。
この絶世の美女は芸能界からも、さる大きなお寺からも輿入れを望まれていたが、すべてソデにしてこのご主人を選んだ。


ご主人の出身は島根という。
なんとなく、分かった。
写真の彼女を見ていると、弁天、観音というようなイメージが浮かんだ。なるほど、ならば金より名誉より「出雲の」、何よりも心優しい男性を選んだのは合点がいく。彼と二人、花々と生き物に囲まれて幸せに暮らした54年間。長い病床生活も、それなら羽根が生えたように幸せだったに違いなく…


ご主人は、それでも寂しくて、とうつむく。みんなね。Mさんよく頑張ったよ、奥さま幸せだったわよ、って言ってくれるんだけど。
でも、54年もそばにいたのに。
私は涙を流した。



龍神を手懐けたという弁財天。龍とは優しさとすなおさに満ちた天然、あるいはそれが顕れたひとだ。
彼女は彼を見ている。愛しむような視線が部屋に満ちている。



「いますよ彼女。見てくれてます。Mさん、あのね。奥さまが亡くなった頃、Mさんのお家の屋根に毎朝この鳥が来たの知ってました?」
私はあの、不思議な夢のように美しい歌声の青い鳥の動画を見せた。ご主人は驚いた顔をした。
「声を聞いたことはあったけど…こんな鳥が?うちにかい?」
「ええ。この夏、毎朝。この家の屋根に。
私も若い頃主人が亡くなったんですが、時間はかかったけれど…だんだん周りにくる鳥とか猫とか蝶々とか花がそうなのかな、って感じるようになっていって。いつのまにか、彼はその中に溶けていましたし、私の中にももういるんだ、って思えるようになりました。
奥さまは徳の高い方だからそうして素晴らしいしあわせな人生を送れたし、それはご主人のお力です。大丈夫。お庭の植物さんたちやめだかちゃんたちが彼女の代わりになってますでしょう?いまは」
ご主人は家に入ってから初めて笑顔になった。
「そうだね。手をかけないと、枯れちゃうし。死んじゃうし。世話をしてあげないと。そうすると自然と外に出て、体も動かさなきゃならないしね」
「お孫さんたちみたいなものですね」
「ほんとだね」
ほんとは、世話をし続けた愛しい奥さまの代わりだ。二人で愛した植物と生き物たち。


あなた泣かないで。私を撫でて。世話をして。愛してる。泣かないで。私、お水が欲しいわ。おなかもすいたわ。笑ってよ、あなた。遊びましょう。元気を出して。そばにいるわ。お花をつけてあげる。愛してる。



涙を拭って辞する時、見事な千両の赤い実の枝を切って束ねて渡してくれた。
「またいつでもおいで」
「もちろん、いつでも」

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