自殺について
人が死んだ。場所は京浜東北線のどこからしい。俺は就職活動の説明会で蒲田にいた。今日は遅くに説明会があったので、ちょうど帰りに一杯やろうと思っていたところである。ホームで電車が動き出すのを待つサラリーマンたちに、うんざりとした表情が浮かぶ。俺と同じように、居酒屋で酒でも楽しみにしていたのだろうか。人が死んでも、思い浮かぶのは目の前のことばかりである。俺はこれから乗るであろう満員電車の惨状を想像し、自然とサラリーマンたちと同じような表情になるのだった。
ところで、自殺場所に電車のホームを選ぶこと自体は、実はわからぬでもない。俺も自殺するとしたら、自分を苦しめた世間に対して、広く世に喧伝したいと思うからだ。自殺と聞くと、まず頭に思い付くのは漫画NARUTOのデイダラだ。デイダラはNARUTOの敵キャラクターで、粘土をこねて爆弾を作る忍術を使う。彼はサスケというキャラクターと壮絶な死闘を演じた末に、半径1kmほどを巻き込む大自爆で往生を遂げるのだ。彼の死に様は見事であった。天晴れである。
いじめられていた時代、他人の無関心に晒されることが多かった。目の前で俺が悲鳴をあげていても、彼らの前では取るにあたらない下らない話題であったようだ。注目するのも馬鹿馬鹿しい、といった具合に、俺の主張は、ことごとく取り下げられるのである。そんな空気の中で生きていると、被害を受けた側である俺にも、皆の空気を乱してしまった、という罪悪感が産まれてくるから不思議だ。いじめられっ子には発言権がない。影響力がない。もし、犯罪のようなことを仕掛けても、影響力がないから「なかったこと」にできる。俺は、偏差値そこそこの高校にいる「良い子」たちの、際限のない悪意に恐怖していた。
しかし、幾ら俺でも堪忍袋というものがある。ある日、仕返しのつもりで彼らの悪事をSNSで晒したのである。下手をすれば、自分の名誉にも関わる問題ではあったが、一矢だけ報いることは出来たようだ。ところが、思ったより話題にはならなかった。当たり前である。俺はいじめられっ子なのだから。
飛び込み自殺や、世を嘆いての無差別通り魔事件などのニュースを聞くと、いじめられていた時代を俺は思い出す。無関心に晒され続け、自分にかけられた悪事さえも無かったかのように扱われるあの恐怖。何忘れてんだよ。と言いたくなる。無かったことにしてんじゃないよ。と。デイダラの自爆のようにとんでもないことでもすれば、取り敢えず皆は"ビビる"だろう。それこそ飛び込み自殺のように、広く世間に知らしめれば、臭いものには蓋は出来ないということを、思いしるはずである(推測であるが、自殺してはじめて、「まさかそこまで思い悩んでるなんて思わなかった…」と周囲の人間が思いやりを見せ始めるのも良くないのではないだろうか。自殺して理解してくれるなら、自殺してやろうと思う人も中には少なくはないだろう)。
俺は幸い、生きてきて今に至るまで、自殺をしようと思ったことはないし、死にたいと思ったこともない。死んだら喜ぶ奴がいるだろうから、しぶとく100歳まで生きてやるつもりだ。しかし、人前で「自殺なんて絶対にしない」と断言したことはない。何となく、自信がないのである。だって、それくらい世の中には嫌なことが溢れているではないか。
もし俺が死のうと思ったとしたら、どうなるだろうか。結論はハッキリとは出せないでいる。ずっと保留にしてあるのだ。その時が来たら、また考えればいいか。
電車は88分遅れで家の駅に着いた。満員電車で疲れたから、近所の餃子の王将でのビールが身に染みた。とりあえず、今は生きてて楽しい。
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