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「死者の書」読み方指南

   漫画化もされている、折口信夫の短編小説「死者の書」について話します。

「死者の書」作:折口信夫

「死者の書」漫画:近藤ようこ

  まずは本記事の題名を。読み方指南なんて、おもいっきり上段に構えましたが、竹刀は持っていません。おまけに胴を着けるのも面倒くさく、小手ぐらいははめているでしょうか。そんな適当な状態で、いったい何がしたいのかというと、わたしが歴史の知識も特になく、古典にもさほど明るくないままで、「死者の書」を一度読んだ。その、本書を手に取り、読み終えるまでの流れを書いていきたいと思います。

  この記録、体験談のようなものを読んで、皆さんにいったい何の得があるのかというと、わたしとしては、まずこういう作品があるというのを知ってほしいというのに尽きます。ですので「死者の書」、あるいは折口信夫の存在も知らなかったという方が、これを読んでいましたら、わたしとしては何がそうさせているのかは分かりませんが、非常に嬉しい気持ちです。

  さらに果てしない欲望として、当たり前のことですが、読むところまで行ってほしい。静かな、でもある意味ではめくるめく読書体験をしてほしいという願望です。そのモデルプランの、提示のようなものが出来ればいいと思います。慣れない形の文章ですが。

  何もないところから読めれば、それが一番良いかとも思いますが、予備知識の代わりにわたしが読む前から知っていたことを書きます。

  まず、作者の折口信夫について持っていた知識は、日本の民族学者であり、同じく民族学者の柳田國男と関係が深かった。大正から、昭和半ばにかけての人でしょうか。わたしは、柳田國男の本は、文庫で二、三冊程度持っていますが、そのくらいです。妖怪や日本の風習、風俗、方言についての本ですね。折口は釈迢空という歌人でもあり、いつだったか図書館で何か歌集を借りたと思うのですが、まったくと言っていいほど読まずに返してしまいました。

  「死者の書」については、それが奈良時代の話で、大津皇子の話らしいというくらいです。大津皇子についても別段詳しくありません。いや、それどころでなく、もっと正確に言うなら、名前は分からないが、和歌を詠んでいて、何だか分からないけれど非業の死を遂げた人の居るらしい、程度の事前情報です。わたしは名前や数字を覚えるのがとにかく苦手で、イメージに依らない記憶力がすこぶる残念なのですが、何だか大友皇子や、有間皇子とごちゃごちゃになっていたような気がします。今もそうなっているかもしれません。もしこの三人の皇子について何も知らないという方でも、大丈夫だと思います。わたしもこれを書くために、wikipediaを見ましたが、よく分かりませんでした。

  それに、今書いていて思ったのですが、あるいはわたしのように、脳内インデクスが湖上の丸太のようで、自分の頭の中の物事が、うすぼんやりしていて、いっしょくたになってしまう人の方が、「死者の書」は読んでいて楽しめるかもしれません。

  あとは自分の読み方に関わっていたかと思うので記しますが、斎藤茂吉の「万葉秀歌」を読んでいました。昨今流行りの万葉集ですが、興味があればこちらもぜひ。新書なのでわりに読みやすいです。これも、そんなに深い読みはしておらず、好きな歌や有名な歌を見つけては、分かるだけの解説を得ていた、くらいのものです。ただ、万葉の調べ(わたしにはよく分かっていませんが)を好んでいる方には、「死者の書」も良いと感じるのではないでしょうか。

  予備知識はこのくらいです。敷居が高いと感じるでしょうか。ただ、わたしは高校では日本史も勉強しなかったくらいなので、さほどのことではないと思います。あとは、神社やお寺。神話や伝説。古墳、貝塚、遺跡等々、好きな方は響くものがあるのではないでしょうか。

  さて、そんなこんなを背景にして、わたしは「死者の書」を購入しました。おそらく、ということで申し訳ないのですが、今年の春先、三月頃だと思います。あるいはこれは、「死者の書」を読んでしまったあとで、記憶の改竄がされているのかもしれません。存在自体は何年か前から知っていました。いずれ読むことになるだろうと思っていましたが、直接のきっかけは覚えていません。多分、本屋でふと思い出したというようなことだと思います。

  そして、わたしは近藤ようこさんの漫画、「死者の書」も買っていました。わたしの思考の常として、原作の方を先に買っているとは思うのですが、それも曖昧です。「原作が読めなくて、漫画を買った」という記憶が無いんですね。ただ、同時に買っているのはあり得ない。何だかどちらを先に手に入れたかも判別がつかなくて、買ったのも三月ではなくて五月頃だったかもしれない。わたしの脳内インデクスは池に浮いている枯れ枝です。我ながらぼんやりしているなあと思いますが、気がついたらどちらも部屋にあった、というのがわたしとしては正確な記述です。

  買ってすぐ、あるいはややあって二回目か、わたしは三月、もしくは四月、五月――まあ春の内に、「死者の書」の小説を開いたのですが、まったく読めませんでした。一章の、一応最後まで目を通したかと思います。情景が浮かばない以前に、言葉がつっかかって、まったく面白くない。そして、ここも記憶がごちゃごちゃしているのですが、このとき、もう漫画の方を読んでいた気がするんですよね。それなのに読めない。定かでない記憶から話すのもなんですが、内容が分からないから読めなかったというのとは、少し違う気がします。

  それで、わたしは小説の「死者の書」を二度と開くことはなく、漫画も一度読んで、面白かったくらいで、忘れていました。「死者の書」も、漫画「死者の書」  も仕舞いもせず、畳の上に転がったまま、夏を越しました。

  秋分の日も過ぎ、即位礼正殿なるものもあり(わたしはその日、日がな一日眠っていたのですが)、十月二十七日になりました。この日付は正確です。ツイートを見たので。十月二十七日に、わたしは何故だか分からないけれど、既にほこりが積もっていた「死者の書」を開いて、もう一度読み始めたんです。

  そしたら、これがすらすら読めるんですよ。いや、すらすらというのは適当ではないかもしれない。分からない言葉も、読めない字もかなりある。それなのに、わたしはそこに居て、言葉にならない風景を見て、非日常的な感情を抱いている。文章の響きがよくて、波動のようなものを感じるなと思うと、止まらなくて、少し息をついたときに、おかしいなと。読めない字や、どう読むのか分からない字が、次々と流れてくるんですが、それをほとんど空白にして、とばして読んでいるんですよ。それなのに、圧倒的な響きを感じている。何だか意味を取っていないのに、意味を知っていて、何が鳴っているのかも分からないけれど、音楽を聴いているような。

  読み終えたあと少し考えたのですが、子どものころの、本を読んでいるときの感覚を味わっていたのかもしれないと思いました。擬似的にそういう読み方をしていたなと。わたしは、今も大して変わらず、そういうところではせっかちな部分があって、本はとにかく最後まで読みたい。そして二度読み、その後も折に触れて読み返す――という読書を続けていますが、今回は質が少し違っていたなと。段々と意味が分かってくるというのは、今でも、また誰にでもあると思いますが、子どものときには持っていて、長ずるにつれて失われた能力というか、ある一つのものさえ分からないけれど、その背後にある全てを予感して、諒解して、感得しているというか、その再現があったように思えます。

  わたしはここのところ小説を読まないでいて、世界が開けていく感覚が、最近物語を創作することでしか味わえないものになっていたので、「死者の書」を読むことは懐かしく、新鮮な体験でした。

  さて、それで読み方指南です。教えられることなど何もないのですが、他山の石、というか、愚者は賢者から学び、賢者は愚者から学ぶとすれば、子どものようなわたしの読書方法からも、学べるところはあるのではないでしょうか。もし、この文章を読んで、それなら読みたいかもしれないと思って下さる方がいましたら、「死者の書」の小説だけは、早めに買って、手元に置いておく方が良いと思います。自分のお金で、本として持つのが大事かと。それを、そのまま読めるのならそれで良く、もし、先に進めないようなら、漫画を買う選択があります。漫画も、読みたいときに読めばいいのではないでしょうか。しばらくのうちは、目に見えるところに本を置いておくことをお勧めします。そのときが来れば、あなたは「死者の書」を読んでいるでしょう。また、もしずっと読む機会が訪れず、棚の底の方に眠ったままだとしても、それはそれで良いのではないでしょうか。はっきりと意識の上には揚がって来なかったとしても、あなたは識閾下で読んでいるかもしれません。つまり、あなたのなかの、眠れる子どもは――ということですが。

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