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起きるたび深くなる眠り

  まだ赦されないのか――最初の寝覚めで、彼はまずそう思った。そして、またすぐに眠り始めた。

  つらい、かなしい、何でわたしがこんな目に逢わないといけないのだろう――彼はやりようのない怒りで揺れ、涙を流した。永遠かと思うほど泣き続け、それでも疲れ果てて眠りに落ちた。

  彼は自由だった昔の頃を思い返していた。素晴らしいとき、何の制約もなく、行きたいところにはどこにでも行け、全てのものを手にしていた。それなのに、49年。これからは、こんな狭い部屋に閉じ籠らなくてはならない。彼は何か、救いを求めるような気持で、眠りについた。

  ここに来る前に、彼は今回就役するその場所、監獄についての説明を受けた。今回の刑務所は、前に収容されていたところよりも新しく、幾分きれいだった。設備は整っており、食事もそれなりの味がし、不足のない量が出る。レクリエーションも充実しているらしい。しかし、それが何の慰めになるか。遥かに大きく、星の瞬く海を泳いでいた後には、たとえ日が差し、水面ゆらめく美しい水の中でも、それはやはり矮小な代用物、溜め池にすぎない。むしろ、こんな子供だましの玩具で遊ばされることは、心をいっそう、惨めなものにさせないだろうか。彼は何度も何度も、そういった考えを反芻していたが、すっかり絶望にひしがれるより先に、急いで目をつぶった。

  それでも――と、彼は部屋の真ん中にいて、考えていた。「それでも、49年のことだ。地球の歴史と比べても46億年。人類史で鑑みても数百、数十万年程度。キリスト生誕から考えたとしても、そのうちの3%にも満たない。いっときのことだ。終わって後から見てみれば一瞬――そうさ、指を弾くよりも、短い合間だ」彼はそう考え、割に気安く横になった。一瞬のこと――しかし、目をつぶりながら彼はこうも思っていた。「瞬間というのは、ときに永久に感じられる。なかにいる当事者にとっては。ましてや、それが苦痛に満ちたものであるならば」

  刑務所の、49年にもおける生活、およびそこで果たす使命を、彼は告げられた。その内容は、前回の監獄で彼が避け続け、見落としてきたものだった。彼は甘んじて、それを引き受けた。「この狭い独房で、精一杯やらなければいけない。今度こそは、それを味得し、達成せねばならない」彼は日の終わりに就寝した。「でも今は、自由だったあの頃に帰しておくれ」

  幾ばくかの年月が経った。彼は今、独房にある鏡を眺め、そこに映る普段自分と呼ばれる「かたち」を見ていた。まだ若さの残る女性が、彼に食べ物を差し出した。彼はそれを半分納得し、半分否認しながらも口にいれた。彼はベッドが置いてある方の、壁の一面を見ていた。手を伸ばして、壁面を撫ぜた。その壁のことは、上から下まで、すっかり分かっている。その壁際に立ち、反対側を眺めた。透明なパネル越しに、刑務所は、遠くの方は霞んで見えない。始めに施設の説明を受けたとき、案内されたその全容は、今となってはうろ覚えだった。彼は壁から離れ、ベッドに横になった。夢の中では、それがまだ見れるだろう。

  彼は夢を見ていた。そのなかで彼は、よき学校にて学び、独り立ちし、美しい女性と結ばれていた。彼は夢の中で幸せだった。ほとんど取りつかれたように働き、それでいて、頭の中は氷のように冷たかった。彼のなかで、やるべきことは全てはっきりと分かっていた。そして、その全てを行った。既に金銭は問題にならず、あらゆるものはもう、手に入る目処が付き、彼は四十を待たずして引退した。そのところで――彼は目を覚ました。起きたあと、彼は夢を覚えていなかった。

  彼は独房の中で、色々なことを学び始めた。あらゆる知識は言うに及ばず、そのなかには叡知、一足飛びに真理に達する、知恵というものも含まれていた。ただ、残念なことにそれは、どこまで行っても、刑務所の中の知恵にすぎなかった。どれほど純粋で、絶対的な真理であっても、こうべを垂れるのは刑務所の中の人間だけだった。そして、彼はもう、そのことには気が付いていなかった。

  彼は刑務所内部の社会に足を踏み入れた。始めは、彼によく似た男の足跡を辿り、怖ず怖ずと進んで行った。刑務所の中にはありとあらゆるものがあり、刺激的で、変化に満ちていた。そこにいる人間はみな競争し、協力し、なるべく早く、出来るだけ高く、積み上げようとしていた。そこにはひどく細かい、複雑な、錯綜とした法則が張り巡らされていたが、彼は幸運にもそれをゴールまで辿ることが出来た。周囲に大勢の人間が集まり、彼は他を圧するほど高く、積み上げることに成功した。頂に立った彼は、ぐるりと頭を動かし、刑務所内の見えるものを全て見渡した。ひとしきり眺めた後、彼は山を下りた。あまり目立たない山の中腹で、気兼ねなく遊び、自由な時間を作りたいと考えていた。

  彼は、自力で得た自分の自由を満喫していた。刑務所内の、ほとんど全てのものは自由に使え、もはや独房に入っているとも言えない、彼のような他の囚人と、相互に通信しあった。利害を超えた純粋な理念を打ち立て、考えを同じくする仲間が集まった。彼らは刑務所内のいくつかの物事を変革し、目に見えない流れを作り上げた。完全に、自分たちの生きているシステムを彼らは完成させていた。広大な刑務所が最近の彼には、隅々まで見通せる箱庭のように感じられた。種々雑多な人々が犇めいているのも、彼には同じようなものが、順番に並んでいるように見える。そのとき、ふと、何かを思い出しそうになった。ぼんやりとした光が、微かに浮かんだような気がした。

  彼はベッドに横になっていた。もうずっと、彼は刑務所の外のことを思い返すことはなかったが、気付かぬうちに眠りの中で、まれにその残骸を見ることはあった。その夢がここのところ、少しずつ増えていた。49年の刑期が、もうすぐ明けようとしていた。彼は床で苦しく寝返りをうった。彼の罪も償いも、とうに思い出すことはなく、前の牢獄で果たせなかった事柄も、忘れきっていた。それでも今回の懲役で、新たな経験を得ることは出来た。しかし――それでもまだ「一部」だった。ある特定のものを否定せず、「全て」を得るのは今回も出来なかった。彼はまた、次の牢獄に移っていくだろう。檻の外の自由、彼が再び手に入れるのは、一体いつのことになるだろうか。

  明かりの消えた部屋の外から、夜の砂浜に打ち寄せるかすかな波の音が、絶えず聞こえていた。酔いが醒めたせいか、自然と目を覚ましてしまった。ベッドに入ったままサイドテーブルの時計を見ると、夜明けまでには、ずいぶん遠い。床に就いた記憶が無い。夕食後、別荘に居るわたしを訪れて来た友人と、何本も酒を開けたせいだ。

  さざ波の音だけがする。隣のベッドで横になっている妻は、寝息の音さえ立てていなかった。部屋にあるものが、暗いなかにぼんやりと浮かんでいる。わたしはどこを眺めるでもなく、目を開いていた。友人と酒を飲んでいた情景から、今こうして、いつの間にやらパジャマにも着替えてベッドに横たわっている、その間の空白を、一つでも明かそうとしてみたが、どうにもならなかった。それは跡形もなく、完全に消え去ってしまったらしい。

  わたしは何分間か、あるいは何秒間か目をつむっていたが、透きとおった静寂がわたしの頭を明瞭に起こし、見えない考えが次々と浮かんでいくのに諦めて、身体を持ち上げた。わたしはそっと、毛布を外して、おもむろにベッドの脇に腰をかけた。同じ部屋にいる妻を起こさないように、細心の注意を払い、こっそりと、部屋の外に出た。

  広い邸宅の廊下を歩いて行き、友人と酒を酌み交わしたダイニングに着くと、水をグラスに注いで、飲み干した。立ったままダイニングテーブルの端に手をかけ、控えめな明かりに映る部屋の調度を、ぼんやりと眺めていた。わたしはしばらくの間、耳を澄ませていたが、家具から目を切って部屋から出て行った。

  建物のなかを所在なく歩き回り、海を見下ろすガラス張りのプールに出ると、傍らに置かれた椅子に座った。点したライトが、プールの水面で僅かながら揺れている。外の景色は、ガラスの返す光でまったく見えない。

「つまり、君はさ。完全に目覚めているってことなんだよ」水の底を眺めていると、昨晩の友人との会話が、突如思い返された。「大抵の人間は、昼間、目を開けているといっても、半分以上寝ているようなものなのさ。だから、自分がどこに向かっているのかも分からず、目の前の角を見つけては闇雲に曲がって行くんだよな」

「でも、君は違う。何をするかもわきまえていて、ゴールまでの道筋もはっきり見通せている。君はまだ、四十にもならないけれど、それで成功しないなんてなったら、嘘だね。プールに屋敷、美しい島、何よりも素晴らしいパートナー。そして君はどこにでも行ける。車に船、ヘリに飛行機、ロケットだって買おうと思えば買えるだろう?君は自分の身を何処にだって持っていける。素晴らしいね。完全なる自由だ」

  完全なる自由、か――わたしはプールの底を見ながら、独り心のなかでつぶやいた。足を伸ばして、ロングチェアに背中を預けていると、頭が少し、ぼんやりとしてきた。ここでひと時、眠るのもいいが――。ガラスの外側で、ざわざわ、ガザガサと、風が吹きつける音がする。わたしは目を閉じていたが、すっと起き上がって、プールサイドを歩いた。扉を開けて、屋外に出た。

  西の空は暗く、眼下に波の打ち寄せる音が聞こえ、星はまだ瞬いていた。風が、花や植木を揺らしている。わたしは島の半分を見渡したが、輪郭は薄く、おぼろげな存在だけで、風が動きによってそこにあるものを示していた。 わたしはデッキを渡って、反対側へ歩いた。日は海の下を少しずつ昇っているようだ。空に青みが差し、海面は白波を立てている。沿岸の岬が遠くに眺められ、葉の長いヤシが目に留まった。桟橋に付けているわたしの船も見える。建物は、徐々に壁の色を浮き立たせ、路地や庭には、鮮やかな花が点々と咲いている。わたしは再び空を眺めた。曙光が目に入り、わたしは押し黙った。星が霞んでいる。目覚めの時間、夜明けが近づいていた。

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