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物語ることで人は生きるし、世界は広がる|『熱帯』森見登美彦

最近小説を読むことから遠ざかり、ビジネス書や新書ばかりを手に取っていた。森見登美彦作品が好きと公言しながらも、氏の世界ともだいぶご無沙汰だったように思う。久しぶりに我が家にやってきてくれた登美彦氏の作品は『熱帯』。2018年11月刊行なので、10か月遅れの出会いだ。

しかし、なんと登美彦氏十八番の京都のポンコツ男子学生が出てこない。読了後に浮かんだ言葉は、生きること、死ぬこと。哲学……?いつもとは趣が違う様子。

ということで、氏の作品群とは一線を画す『熱帯』は、人生や、今生きている世界の輪郭を揺るがす怪作であるよというお話です。

とはいえ、『熱帯』は氏本人もおっしゃっておられるように、出版はされても未完なのです。謎は謎のまま、詳らかにする必要がないことも言い添えておきましょう。

※ネタバレしていくつもりなので、未読の方は注意すべし。

森見登美彦『熱帯』のあらすじ

第一章の冒頭から現れるのは、森見登美彦氏本人。小説のアイデアが浮かばず、奈良にてそれはそれは懊悩している。『千一夜物語』をちまちまと読みながらぐうたらしている氏がふと思い出したのが、謎の本『熱帯』だ。学生時代に出会い、読み進め、読み終わることなく枕元から忽然と消えた本。佐山尚一著『熱帯』は、その後どんなに探しても見つかることはなかった。

友人と向かった「沈黙読書会」で、登美彦氏は『熱帯』に再会することとなる。沈黙読書会とは、何らかの謎を抱えた本を持ち寄って語り合う会。そして、その本の持つ謎を解くことは禁じられている。そこに『熱帯』を持参している女性がいたのだ。

その女性は『熱帯』を「誰も最後まで読んだことのない本」だと言う。その謎について彼女 白石さんは語り始めるのだった。

第二章では白石さんが『熱帯』に「再会した」いきさつを語る。

彼女が働く模型店に通う客、池内さんはいつも大きなノートを抱えていて、読書のメモ書きをしたためている。そこには以前、池内さんが出会い、読み進めるうちに無くしてしまった佐山尚一の『熱帯』についてのメモがあった。

白石さんは思い出す。自分も昔、その『熱帯』を読んだことを。しかし、途中までしか内容を思い出せない。白石さんは池内さんの勧誘を受け、読みおえることができなかった『熱帯』の謎を調査する、「学団」という読書会に参加することになった。

学団ではそれぞれが『熱帯』の覚えている箇所を、大きな紙に書き込んでいく。白石さんの加入によって新たなキーワード「満月の魔女」が生まれ、調査が進んだところで、学団員の一人 千夜さんが脱退した。謎の言葉を残して。


「皆さんの読んだ『熱帯』は偽物なんです。」
「私の『熱帯』だけが本物なの。」

脱退後に京都へ向かった千夜さんを追いかけ、『熱帯』の謎を解こうとした池内さん。彼は京都から白石さん宛に自身の読書ノートを郵送し、失踪した。第三章はそのノートの中身だ。

佐山尚一と知り合いだった千夜さんの足取りを追いかける池内さんが辿り着いたのは古道具屋「芳蓮堂」。そこには売り物ではないカードボックスが置かれている。中のカードに書かれていたのは、池内さんのこれまでとこれからの行動を予知するものだった。

池内さんは、千夜さんや佐山尚一を知る今西さんや芳蓮堂主人、『千一夜物語』に詳しい祖父を持つマキさんと出会い、謎に近づいていく。

『熱帯』は誰が書いたのか

物語の中の物語の中の物語――『熱帯』は入れ子構造になっている。第一章では、『熱帯』のことを知りたい森見氏が『熱帯』を持つ白石さんに出会う。そして、第二章では白石さんが学団に加入し、『熱帯』の謎を調査してきたことが語られる。第三章では、『熱帯』の謎に迫った学団員の池内さんが、千夜さんを追って京都で体験した出来事が描かれる。

第三章のラストで池内氏は謎の核心に迫り、自らが『熱帯』の冒頭シーンを書き出すところで終わる。

第四章以降はまさに『熱帯』の中身だ。語り手の主人公が島の砂浜に打ち上げられている。何があったのか、ここがどこなのか、自分が誰なのかわからない。ファンタジックな冒険小説が描かれていく。第五章のラストで判明するのが、この四章以降の『熱帯』の作者は「佐山尚一」であるということだ。

さらに後記では、『熱帯』を書いて36年後の佐山尚一が沈黙読書会に出向き、そこであの白石さんが、森見登美彦著の『熱帯』を紹介するところで終わる。

そう、『熱帯』はいくつもあるのだ。今、私の手にある森見登美彦氏の『熱帯』、佐山尚一の『熱帯』、ラストに出てくる森見登美彦の『熱帯』、そして恐らくは池内さんの『熱帯』。白石さんの『熱帯』もあるだろうし、その他学団員の『熱帯』もあるかもしれない。

登場人物が生きる分だけ、『熱帯』が生まれることになる。

物語ることで人は生きる

『熱帯』の登場人物は『熱帯』を物語ることで自分を生かし、登場人物が生きることで『熱帯』は紡がれ続けることになる。だから、『熱帯』は誰も読み終わることができない。『千一夜物語』で自分が生きるために毎夜物語を紡ぐシャハラザード。人は皆シャハラザードであると言える。

さらに、それぞれの『熱帯』にはそれぞれの物語があるから、ひとつとして同じ『熱帯』はない。物語は語り手の数だけ枝分かれしていく。つまり、誰かが『熱帯』を語り始める=人生を生き始めるごとに、パラレルワールド的に世界は広がる。

これは森見登美彦氏が書いた『熱帯』という世界の内部の話だけではない。例えば、登美彦氏が物語る度に、京都の街には裏道が生まれ、異世界への通り道ができ、街が広がってきた。登美彦氏の作品を読んだことのある人なら、納得の感覚だろう。

今を生きる私たちも同じく、それぞれが物語り、自分自身を生かしている。隣人はもしかしたら別の『熱帯』、つまりパラレルワールドを生きているかもしれない。

『熱帯』の謎に迫った私には、今生きる世界の現実と空想の輪郭がひどくぼやけて見えるのである。

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