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『生命式』(続いて3編)(村田沙耶香著)を読んで(感想文)

『素晴らしい食卓』
単純に考えれば、個食の時代を皮肉った小説と言える。私の夫はハッピーフューチャーフードという宇宙食(栄養剤と言ってもいい)を主食とし、妹は魔界都市ドゥンディラスの料理を作る。妹の婚約者が両親を会わせるために私の家に来る。手土産は蝗の甘露煮。誰もが他の人の食べ物を口にしようとしない。家族が同じものを食べるのではなく、自分が好きなものだけを食べる個食の時代を象徴している。

しかし、ここで止まってはいけない。村田沙耶香がそんな簡単なひとつのテーマだけで、小説を書くはずがない。
『生命式』や『素敵な素材』にも繋がってくるが、日常の世界に潜んでいるはずの非日常が堂々と姿を現す。
日常というのは人それぞれにあるもので、しかし、自分の日常と他人の日常を違うものだと思える人は少ない。自分の日常が他人にとって非日常になってしまえば、話が噛み合うわけがない。
この小説でも、登場人物たちが困り果ててしまう。

しかし、そこに救いの神? が現れる。私の夫である。登場人物の中では一番部外者であるはずのこの夫が、みんなの空気を噛み砕くように、誰も手をつけない食事を噛み砕く。

異業種交流会に影響を受けて、「文化の融合だ」と大喜びで、それぞれの皿に手を出す。「おいしいなあ、おいしいなあ」と言いながら食べまくる夫を、他のメンバーが化け物を見るような目つきで見ている。

でもここでもし、夫が芝居をしているとしたらどうだろうか。夫は一番の部外者であるからこそ、まわりを盛り上げなければいけないと、無理をして食べているように思えてならない。

しかし、そんな優しい気持ちが他のメンバーに伝わらない。一人浮いた存在になっている。ただ、これも人によって日常が違うことによる誤解なのだろう。少なくとも妻にだけは誤解を解いておいたほうがいい。

『夏の夜の口付け』
この小説は、芳子と菊枝という友人二人の物語です。性に積極的な菊枝についていけない処女の芳子。芳子はセックスどころかキスすらしたことがないが、人工受精で女の子を二人産んでいる。まわりの日常崇拝者からは根掘り葉掘り芳子の性生活を聞こうとするが、芳子はそれを単純で、残酷で、傲慢だと思う。どうしても芳子を多数派の日常(常識)に引きずりこみたいのだろう。それが自分たちの安心になり、平穏になり、つまりは日常になるからだ。

そんな中で、菊枝だけは芳子を素顔の芳子として見ている。

夜の帰り道、菊枝は「男の子の舌と似ている」というわらびもちを芳子に手渡す。芳子がその柔らかい塊を歯で噛みちぎると、胸がすっとした。

芳子が性から逃げていたのか、体質的に受け付けられなかったのかは書かれていない。しかし、男の子の舌と似ているわらびもちを噛みちぎることで、胸がすっとしたならば、心のどこかで、異性とのキスやセックスを求めなかった過去をすべて断ち切りたかったに違いない。

<二人家族>
『夏の夜の口付け』の芳子と菊枝は、『二人家族』の芳子と菊枝とは違う人物なのか。『夏の夜の口付け』で、菊枝は芳子に「今夜、家に来ない」と言っているが、『二人家族』で芳子は「四十年ほど前から一緒に暮らしています」と隣のベッドの女性に話している。

でも、二人の関係は『夏の夜の口付け』と同じに見える。もしこれが作者の勘違いでなければ、なぜ、わざわざそんな嘘をついたのだろうか? そこには日常の中の非日常がまた顔を出す。菊枝はアンチ日常生活を生きていて、他と違っていることに誇りを持っているのではないだろうか。病室の同室の女性に珍しがられたり、娘の同級生の親を混乱させたりする場面がある。しかし、菊枝は非日常を演じているのではなく、反日常を真剣に生きているのではないか。逆に芳子自身は芳子の日常を生きているようだが、自分の日常を受け入れてくれる菊枝は、信頼できる友だちなのだろう。だからこそ性格は違っていても、長く一緒にいられる素敵な関係を保てている。

最後に菊枝がノートを買ってきてほしいと芳子に告げるが、菊枝は自分にとっての日常、つまりは反日常を生きた証として、何かを残したくなったからなのではないかと僕は推察する。

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