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幻聴 第2章 離婚の理由

「ただいま」
幹生が会社から帰ってきた。
「お帰りなさい。もうすぐ夕飯ができるから、先にお風呂に入ってて」
「離婚届は取ってきた?」
「ええ、今日区役所でもらってきたわ」
「そうか、それじゃあ夕飯が終わったら早速片づけてしまおうか」
「そうね」
「じゃあ、風呂に入るよ」

幹生は湯船に浸かりながら、薄笑いを浮かべた。
ここまではあまりにもうまくいきすぎている。真弓の天の声の話には驚いたが、この調子でいけばすぐに雅子と結婚できるだろう。最初は高嶺の花だった雅子だが、関係が深くなっていく分だけ、幹生の中の雅子に対する愛は深まっていった。なんと言っても、雅子が妊娠したのが決定的だった。

幹生は乏精子症と診断されていた。精子の量が少なく、不妊の原因となる。幹生の父も同じ病気だった。幹生の両親は、結婚して8年が過ぎても子供を授かることができなかった。病院に行って検査した結果、父の乏精子症がわかった。父は母が子供を欲しがっているのを知っていた。お互いの両親もそれを待ち望んでいることもわかっていた。父は母やそれぞれの両親に対して責任を感じ、そのストレスで胃潰瘍を発症した。不眠症が続き、そのうちうつ病にもなった。後日、そのときの状態を父は、
「地獄の底だと思っていたら、そこからまた突き落とされるんだ。自分がどこまで落ちていくのかわからないのが恐かった。いっそ死んでしまえば、もう落ちないで済むと思ったことが幾度もあった」
と言っていた。父の体重は15キロも痩せ、円形脱毛症にもなった、そんな話も母から聞いていた。

真弓と婚約したとき、幹生は念のため自分も病院で調べてもらった。乏精子症は遺伝すると聞いていたからだ。幹生は父と同じ責任を背負う勇気がなかった。しかし、結果は父と同じ乏精子症だった。自分は子孫を作れないかもしれない。父と同じ地獄を味わうのだけは絶対に避けたかった。だから、真弓には子供は当分のあいだは作りたくないと話していた。

しかし、雅子に対しては避妊せずに関係を結んでいた。雅子からお腹に赤ちゃんができたと言われたとき、幹生は動揺よりも喜びを感じていた。自分も子供を作ることができたのだ。自分も一人前の男だったんだ。

後は離婚届に真弓のサインと印鑑をもらうだけだ。それが終われば、雅子との明るい未来が待っている。でも、真弓が離婚に応じてくれるのか? 問題はそれだけだった。
                   <続く>

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