湖の記憶10(ミステリー小説)

10

サトルは湖に向かって車を走らせていた。
もし、あの骨が自分の一卵性双生児の兄弟のものだったとしたら、兄か弟かわからなかったが、あの墓はその兄弟のものだったことになる。あの寺の住職ならば何か知っているのではないか。サトルは直接会って、住職に聞いてみるつもりだった。

午後一時過ぎに寺に着いた。本堂を抜けた奥に一軒の古い家があった。サトルは呼び鈴を押した。
「はーい、今行きます」
奥のほうで女性の声が聞こえた。小走りの足音が聞こえ、すぐに戸が開いた。
「何でしょうか?」
白髪混じりの年配の女性が尋ねた。
「森本悟という者ですが、ご住職に会いたくて東京から来ました」
「森本さんですね。今呼んできますので少々お待ちください」
用件も聞かずに女性は再び小走りで奥へと消えた。まるで自分が来ることを知っているかのようだった。

「いや、わざわざ東京から来ていただき、ご苦労様でした」
袈裟を来た初老の住職が優しい声で言った。
「あのお墓のことですよね」
やはり住職は事情を知っているようだった。
「さあ、どうぞお入りください」
サトルは広い和室に案内された。さっきの女性がお茶をふたつテーブルに置き、お辞儀をして出ていった。
「それにしても大きくなられましたなあ」
感心するように住職は言った。
「でも、面影はあります」
「前に会ったことがあるんですね? 俺にはまったく記憶がないんですが」
「そうですね。あなたはあの事故で記憶喪失になりましたから」
「記憶喪失?」
「えっ、ご両親から聞いていないのですか?」
「両親は昨年亡くなりました」
「そうですか。それはご愁傷様です。ご病気か何かですか?」
「いいえ。交通事故でした。対向車が車線をはみ出して、正面衝突したんです」
「それはお気の毒さまです。ご両親は記憶を失ったことを話さなかったんですね?」
「ええ。オレには幼少期の記憶がありません」
「どうしてここがわかったんですか?」
「ただの偶然です。今オレはカメラマンをやっていて、日本中の湖を撮影しています。ここにも写真を撮りに来たんですが、遊覧船に乗ったとき、初めて来たはずなのに、来たことがあると感じたんです」
住職はうなずきながら、真剣に聞いていた。
「それは小学生の頃に毎日見ていた夢の中の景色でした。だからオレは湖のまわりを調べてみました。そこでこのお寺に入り、自分の名前の墓を見つけたわけです」
「それはそれは。驚かれたでしょう」
「大変申し訳ないんですが、オレは墓を掘って骨の一部を持って帰りました」
住職は少し顔をしかめたが、すぐに元の優しい表情になって言った。
「まあ、それも仕方ないことですかな。事情は私もわかりますから」
「本当に申し訳ありません。最初からご住職を訪ねれば良かったんですが、動揺していてそんな簡単なことも思いつかなかった」
住職はうんうんと首を縦に振った。
「DNA鑑定をしてもらいました。その結果は同一ではないが、ほとんど遺伝子が一致していて、一卵性双生児だとしか考えられないそうです」
「さあ、冷めないうちにお茶をどうぞ」
住職に言われ、サトルは湯呑み茶碗を手にした。

「ご事情はわかりました。あなたは自分の過去を知りたいのですね?」
「はい、そうです」
サトルはうなずいた。
「どんなことがあったか知りたいんです」
「わかりました。まあ、もう十分話してもいい大人になられたわけですから。それにご両親も亡くなられたことなので、ここで何があったかお話しましょう」
住職は少し間を置いてから話し始めた。
「平成十年の春でした。あなたはご両親と双子のお兄様と四人で、この湖に遊びに来られたそうです。観覧船に乗られたときに事故が起きました。あなたのお兄様が船から落ちてしまったのです」

突然、記憶が戻ってきた。
「お兄ちゃんを船から落としちゃったあ」
泣きながら母の胸に飛び込んだ。

「お父様は慌てて甲板に出ました。騒ぎはすぐに船長に話が伝わり、船は停ました。係員が甲板に行くと、お父様はすでに湖に飛び込んでいました。係員もすぐに浮き輪を持って飛び込みました。それからお兄様は引き揚げられて、係員が人工呼吸しました。船が桟橋に着く頃には救急車がもう来ていました。病院へ搬送されましたが、残念なことにお兄様はすでに亡くなっていた。そのようにあなたのご両親は話しておられました」
「オレが突き落としたんです」
「思い出されたのですか?」
「はい、たった今」
住職が心配そうに自分の顔を見ているのがわかった。
「何が原因だったかまでは覚えていません。ケンカになって、オレは兄貴を突き飛ばした。兄貴は手すりから外に落ちた」
「あなたは『僕がお兄ちゃんを殺したんだ』とずっと大泣きしていたそうです。葬式が終わった翌日、あなたが記憶を失くしていることにご両親は気づきました。泣くのをやめ、普段どおりに遊び始めたそうです。ご両親が聞いても事故のことは何も知らないようだったと言っていました。小さい子どもの事件でしたので、警察は事故として片づけました。ご両親はあなたに事故のことを思い出してほしくなかったので、ここにお墓を立てられないかと私に相談に来ました。ご事情を聞いて、寺の隅にお墓を作りました。お兄様の名前は森本悟でした」
「兄がサトル?」
「あなたの本当の名前は森本亘です。ご両親はあなたの記憶が戻らないようにと考えて、あなたの名前を変えました。ワタルという名前からお兄様のサトルという名前に」
「なぜそんなことを?」
「ご両親はあなたの中で悟さんが生きていると思いたかったそうです。あなたはお兄様の命も生きているのです」
サトルの目から涙が流れた。
「オレは自分の過去を教えてくれなかった両親を恨んでいた。暴力も振るったし、迷惑もたくさんかけた。両親はオレを守るために隠してくれていたんですね」
「そのとおりです。毎年四月四日にお父様かお母様のどちらかが墓参りに来ていました。ご両親はいつ話せばいいか悩んでいましたよ。二十歳になったら話せばいいんじゃないかと話したんですが、結局話していなかったのですね。それだけご両親もお兄様が亡くなったことで苦しんでいたのでしょう」
「これから今まで迷惑をかけた分以上の親孝行をしたかったのに」
涙が止まらなかった。住職が肩に手を当てて言った。
「その気持ちが大切なんですよ。その気持ちだけは死ぬまで忘れないでください」
「わかりました」
「お墓に行きますか?」
「ぜひとも」

住職が線香をサトルに手渡した。すでにサトルはお墓をきれいに拭き、落ち葉を片づけていた。
「兄貴、謝るのが遅くなったけど、ごめん。オレは兄貴の分まで必ず生きるから。だから空からオレを見守ってくれ」
風が止まり、線香の煙が空に昇っていった。まるでサトルの思いを届けるかのように。
「いろいろとありがとうございました。これからも毎年来ます」
「そうですか、お兄様もご両親もきっとお喜びでしょう」

事実を知って、今さらながらに考えてみると、両親はサトルを甘やかして育てていた。そこにはどこか卑屈な態度さえあったように思う。その態度に思春期のサトルは反発心を持った。しかしその卑屈さには、サトルに兄の人生まで背負わせてしまったという、両親なりの償いの意味があったのかもしれない。

サトルは寺を後にした。
                   <続く>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?