川上未映子『ヘヴン』を読んで
著者はこの物語でイジメを取り上げているが、イジメ対策をどうするかなど、決して社会問題にメスを入れているわけではない。
イジメの当事者として大きな役目を負っているのは、いじめる側では百瀬であり、いじめられる側では僕とコジマである。
三人はイジメに関して三者三様の理論(理屈)を持っている。
僕の理論は道徳的で、世の中に対する無知が原因の、一番正統派の理論である。しかし、正統であるが故に、社会のしがらみをどうしても排除してしまう。
それに比べて、百瀬の理論は良い悪いは別として、論理的に一番適っていると思わせる説得力がある。
コジマの理論は「できごとのすべてには意味がある」というもので、自分たちは弱いのではなく、イジメを受け止められるだけ強いという考え方だ。コジマはこの弱さを受け止める強さを持つ者だけの世界を「ヘヴン」と名づけたのだろう。しかし、これは自分で自分を守るための単なる屁理屈にも聞こえてしまう。
僕は自分の幼稚性を意識し、コジマの大人の考え方に憧れを持つ。
しかし、百瀬の現実的な理論の前で、コジマの理論に違和感を覚えてしまう。その行き違いから文通も直接会うことからも遠ざかってしまう?
後半の雨の場面。僕とコジマは絶体絶命の立場に立たされる。鋭利な石を手にしながら何もできない僕に対して、コジマは自ら全裸になり、イジメっ子たちに対峙する。その狂気迫る行いを見て、僕は最後にはコジマが正しいと理解する。
ひとつだけ残念な点を言えば、大人のコジマに劣等感を抱き、自殺しようと考える場面は筆者にしては平凡すぎる気がした。
ミステリー小説の場合は、伏線をすべて回収して事件を解決させる役割がある。でも、純小説は伏線をいくつか張っていながら、それらをすべて回収してしまわないで、読者の想像に任せられるのが名作だと思う。
まず第一の答のない伏線は主人公に名前がついていなかったこと。
イジメっ子らは「ロンパリ」とあだ名で呼び、コジマは「君」と呼ぶ。母親は息子の名前を一度も呼ばない。著者は僕という者を客観的な存在としたかったからだろうと、僕は思っている。何故なら私にとってこの小説の主人公はコジマだと思っているからだ。
第二の答のない伏線は、「ヘヴン」に行くと約束しながら、結局コジマが名づけた「ヘヴン」という絵を見なかったこと。
私はこの絵を「最後の審判」を想像した。
三つ目の答のない伏線は、コジマがハサミでモノを切る意味。
この点についてはヒントがほとんどない。無理やり出した答が、イジメがまかり通る世の中は間違っているので、その現実世界を破壊したいという意志がコジマにはあったのだろう、というもの。(こじつけがヒドいか?)
最後に斜視が治った僕の世界が、今までの地獄から美しい世界(ヘヴン)へと本当に変わることを期待したい。
また、大人になってから僕とコジマに再び会ってもらいたいと思った。