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「分かってくれない」というその悲しさは、自分へ向けてあげればいい。

人は皆、それぞれの想いを生きている。
大切にしたいものを守るために、自分の願いを叶えるために、それぞれの背景を持って生きている。

だから、分かり合えない、と切り捨ててしまう前に、
この人は私を傷つける人だ、と決めつけてしまう前に、
想像できる自分でありたい。

この人の願いは、何なのだろう。
背景を重ね合わせる事は、本当に不可能なのだろうか、と。

怒鳴りあいをした後に、茶を飲みながら談笑する。こんな日が来るとはなあ。

会社で、久しぶりに常務と喧々諤々やり合った。

はた目には常務が私を一方的に怒鳴りつけて、否定して、パワハラを受けているように見えるらしい。そして、私がぷるぷるしながら必死に反発している子猫のように見えるらしい。

今回も、居合わせたグループ会社の人が漫画みたいにドン引きしていた。(すすすっと水が引くように周りの人が距離を取って、心の壁を立てたのがすごく良く分かった)
他部署の管理職の人や同じ部署のメンバーにも、「なんなのあの人、ひどいよね」と慰められる事も数知れない。


けれど私は、パワハラ被害者ではないし、上司に否定しまくられるかわいそうな子でもない。

正直に言えば、そういう被害者的な気持ちに陥って、可哀そうな自分に酔いしれていた時代もあった。ストレスで憩室炎を発症し、「白血球の数すごいんだけど、職場のストレスとかない?」と医者に心配されたこともあった。


けれど、今はきっぱり言うのだ。
私という存在は、一ミリも傷ついていない
彼が否定したいのは私の「やり方」「考え方」であって、私という存在そのものではない。私は私を被害者の椅子に座らせはしない、と。


そう自分で決める事ができてからは、
「はあ?バカじゃねえのお前がこの件承認したんだろうが。部下の責任に転嫁するんじゃねえよ。否定ばっかりしてないで対案出せよ」と、
(プルプルしながら)お上品な言葉で反論も出来るようになった。

私たちは、傷つけあうために会社に居るわけではない。

会社という場所で、お互いが自分の思う正しさを守ろうとして、考えがぶつかっているだけ。それだけの事だ。そこに自分の価値とか人格とかを乗せる必要なんてないのだ。


今回も、お互いに言いたいことをガンガン言い合った後で、「じゃ、何処に落とし所見つける?」とお茶菓子を食べながら相談するし始めた私たちに、周りの人たちがまたドン引きしていた。

背景を重ねるという事は、それだけで愛があるという事なのだ。


「関わりたい」と言う思いがあるからこそ、人は誰かに言葉を放つ。
誰かのために感情を動かすと言うことは、相手の存在を認めていることの裏返しでもある。

行きずりの、通り魔的な事件とかならともかく、毎日顔を合わせている相手に何かを言おうと思うのは、それだけで「存在を認めている」からでもある。


だから、「怒られた」「否定された」と、被害者の椅子に座ってしまうのではなく、相手の怒りのその奥には、どんな願いがあるのだろうと想像してみる。私に大切にしたいものがあるのと同じように、相手にも大切にしたいもの、守りたい願いがあるのだと想像してみる。

そうすると、加害者だと思っていたあの人が、ただ「考え方の違う人」に変わって見えてくるのだ。

分かって欲しいと思う気持ちは、自分の内側へと注ぐ。私たちはまだ、自分を知らないのだから。


とはいえ、「そんな風に考えられたら苦労しないよ」もまた真実。


私もたくさん反発した。
恨みの言葉をノートに書き連ね、暴君上司早く退職しろと呪った。不慮の事故で役員全員交代しないかなんて夢想した日々も長い。


だけど、他人を変える事なんてできない。だからこそ繰り返し問うのだ。
どうして私は、そんなに相手の言動に傷つくのか。
私はいったい何に傷ついて、何を守りたくて怒りを感じているのか。


自分の気持ちを、子供のように語らせてあげる。認めて認めてと叫んでいる頑張り屋の自分に思う存分語らせてあげる。分析せず、なだめすかさず、ひたすらその言葉を聞いてあげる。

私だって頑張ってるのに! 認めてよ! 私の頑張りを認めてよ!
私が仕事で役立ちたいと思っている、その気持ちを理解してよ!

私だって頑張ってる! 役に立ちたいと思ってる!
その気持ちを否定しないで!

……ああなんだ、私は仕事を頑張りたかったんだ。
会社のためになることを、したかったんだ。役に立ちたかったんだ。

その気持ちを分かってもらえないと、傷ついて、悲しくて、わかってくれよと怒っていたんだ。

その捻じれた表現が腑に落ちた時にようやく、私たちは他者に想いを馳せる事ができる。

……じゃあ、あの人は何であんなに声を荒げたんだろう。
あの人にもわかって欲しい思い、大切にしたい想いがあるんだろうか?

自分の怒りが、自分の願いから生まれているのだと知るからこそ、あの人の怒りの奥にも「願い」があるのかもしれないと思えるようになる。


その瞬間、自分だけが被害者の椅子に座り続ける事の無意味さに、私たちは気づけるのだ。


私たちは自分の「願い」を生きている同士。

例えば今回の常務の場合であれば、
願うのは会社の繁栄。社員にお給料を払い続けられる会社の存続。

その願いは私も一緒。一緒なのだ、目指す先は。

ただやり方が違うだけ。
正しいと思う道筋が違うだけ。


願う先が一緒なのだから、共に在ることができる。
やり方をすり合わせて、同じ未来を叶える道筋を探すことができる。


だからこそ、まずは自分の内側を見る。
怒る相手を変えようとしたり分析するのではなく、自分が相手の怒りにどう反応したのか。自分がこの件で大切にしたい願いは何なのかを、まず自分が自覚する。

その先に、背景を重ねあう在り方が見えてくる。

 * * *

帰り際、常務がしみじみと
「会社の中で一番信頼しているのはあなただから」と言った。
「今までもたくさん怒鳴って悪かったね。だけどあなたなら分かってくれると思って、つい強く言ってしまうんだ」と。

正直、ヒートアップせずに穏やかに話し合えないんかい! と思う。
けれど、人の性格を変える事はできない。私が私の性格を変えられないのと同じように。

相手に変われと願うのではなく、願いの先を眺めてみる。
少しでも重ね合わせられる背景は無いかと、想像してみる。
それだけで、世界が少しずつ優しく変わる。

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深月恵:ママカウンセラー・自己対話ノート

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