過去を断じることで苦を滅するという思想【ブッダという男】本紹介.2


この記事で紹介する本

  • タイトル:ブッダという男ー初期仏典を読みとく

  • 初版発行:2023年12月10日

  • 著者(監修者):清水俊史

  • 発行所:筑摩書房


【ブッダという男】の概略


この本は人の身でありながら悟りを開き神と同一視される信仰を得た、
ブッダ、ゴータマ・シッダッタの人間としての側面に光を当て、
等身大の姿を見つめようとする本だと言える。

残された資料等を先入観や自身の願望を除きありのまま解釈し、
どのような価値観、どのような死生観等を持っていたのか、
人間としてのありのままの姿を浮き立たせようと試みています。

仏教の開祖、釈迦としても知られるブッダですが、
仏教という教え自体はブッダが1人で生み出したものではない。

元々、インドではバラモン教と呼ばれる宗教が主流でしたが、
厳しいカースト(階級)制度、悟りを得られるのは上位の司祭階級による、
祭祀を実行しなければできないという悟り専有とでも呼べる思想。

それら教えに反発を覚え批判する自由思想家が生まれるようになり、
後にバラモン教を再解釈し新たな教えとして確立する、
沙門宗教と呼ばれるバラモン教と対立するものが7つ生まれた。

そのうちの1つがブッダが起こしたとされる仏教であり、
後に残ったのは現代から見てもわかるように仏教だった。

この本ではそういった沙門宗教やバラモン教と仏教の違い、
ブッダがどのようにバラモン教を再解釈したのか、
他の沙門宗教と比べて何が画期的で現代まで残ったのか。

そこからブッダ個人の価値観や考え方を紐解こうとしてるわけです。

また、現代にある様々な仏教やブッダの研究から現代的な視点、
先入観や価値観を排し当時のインドにおける価値観から、
ありのまま解釈することを目指しています。

現代的、唯物論的な解釈でもなく神話的な解釈でもなく、
ありのままの仏教やブッダの成り立ちを学びたい場合はオススメです。


【ブッダという男】から学んだこと


現代的な解釈から離れ当時のインドの価値観も踏まえたうえで、
仏教、ブッダの教えを紐解いたものを改めて眺めてみた時。

まずブッダは弱者救済を唱え救世主たらんとしたという印象がある。

ブッダ、ゴータマ・シッダッタは元々王族として生まれ、
何1つ不自由なく生きていたが外の世界にはびこる苦を見て、
この世界の不条理に感じ入ることがあり出家したのは有名な話。

ようは、ブッダが仏教を起こすきっかけは苦からの解放であった、
あまねく苦しむ人々が安らかになることを目指していたと思う。

そして、それを可能とする人間という存在のスペシャリストだった。

ブッダは、個体存在を分析しそれが五要素(五蘊)から成り立つこと、しかもその要素すべてが無常であり苦であるから、バラモン教やジャイナ教が想定するような恒常不変の自己原理など存在しないことを主張した。これが無我説である。その無我なる個体存在は、原因と結果の連鎖によって過去から未来に生死輪廻し続けているのであり、この連鎖が続く根本原因は無知である。したがって、悟りの知恵によって無知を打ち払い、すべての煩悩を断てば、輪廻も終極する。ブッダは、輪廻を引き起こす主要因が業であることを認めながらも、煩悩こそが業を活性化させる燃料になっていることを突き止めた。

ブッダという男

本の中に書かれているブッダの教えのざっくりとした概要ですが、
まず五蘊(ごうん)によって人間という個は成り立つ。

五蘊とは色(肉体)、受(感情)、想(概念)、行(意志)、識(認識)、
5つの要素のことでありこれらが相互作用することで人間個人は、
現実において何らかの言動を起こし、感じることになる。

しかし、この五蘊自体はすべからく揺らぐものであり恒常不変ではない、
故に人間に本質的に個は存在しない、すなわち無我であると説いた。

常に揺らぐ無我なる個人は原因と結果の連続によって過去から未来に、
生死輪廻し続けるがそれは無知、自分が無我であるということを知らず、
常に揺らぐものに対する煩悩に振り回されているからである。

そして煩悩が過去から延々と積み重ねてきた苦しみを生む業を活性化させ、
終わることのない苦しみにさいなまれることを余儀なくされている。

だから知恵をもって煩悩から解放されることで積み重ねた業が不活性化し、
生死輪廻は終わり苦しみから解放されるのだと言っているわけです。

この教え、現代の価値観や考え方からすると分かりづらいと思いますが、
1つずつ紐解いていくと脳科学や心理学にも通ずる考え方で、
ほんとによく練られた教えだと思うんですよ。

例えば生死輪廻、死した後も人は輪廻転生し業を引き継ぐため、
現在の自分の苦しみは全て自業自得であるというのが仏教の教え。

これって一見すると理不尽な教えに感じられますが、
ようは現在の自分の苦しみはその原因が何であれ、
全て自業自得なんだから諦めなさいと言っている。

例え自分が原因じゃなくそのことをいくら憂いたとしても、
今の苦しみはなくならないどころかそこに焦点が当たるだけ、
むしろ苦しみは大きく長くなっていく。

他責にすることで苦しみという問題が自身の手から離れ、
一切コントロールできないものへと変わってしまう。

だから、前世に業を積んだことにして現状を諦めて、
未来に苦がない状態を実現するためにできることをしなさい、
そちらにエネルギーを使いなさいと言っていると解釈しています。

意図しているかに関わらず人間の現状は全て過去の積み重ねにある、
故にその原因が何であれ過去に積み重ねたものが現在の自分、
感情や意志等を生むというのは脳科学や心理学から見てもその通り。

つまり、生死輪廻という考え方は過去の積み重ねが現状を生むと理解し、
またその範囲を前世まで広げることで現状をより納得(諦め)しやすくし、
苦しみを助長するのではなく解放されることにエネルギーを向ける。

そのための理にかなった教えであると言えるわけですね。

で、この積み重ねたもの、業がいつまでも影響を与え続けるのは、
五蘊から生まれる煩悩が原因であるとしている。

五蘊とは先に話したように肉体、感情、概念、意志、認識、
つまりは自分と外の世界との接点から生まれる要素。

ようは相対化することで生まれるものを煩悩と言っているのです。

例えばお金がほしいという煩悩はお金を持っている相手との相対化、
お金によって得られるものとの相対化、お金を得たという想像との相対化、
あらゆる相対化によって欲という煩悩が大きくなっていくわけですね。

で、大抵の人はそういう相対化を無意識に知らないうちにやっている、
知らないところでの行為が意識にも影響を及ぼして煩悩となる、
つまり無意識に対する無知によって煩悩が生まれ業を動かす。

苦しみを生んでいると言ってるわけでつまり悟りの知恵とは、
無意識を理解するための知恵であると解釈できます。

そのための方法としては例えば瞑想、自分の体や心の動きに集中し、
外の世界と切り離されることで相対化の影響力を弱め、
無意識への理解を深めていくという修行法があるわけです。

と、このように教えの中心となる概念を紐解いていくと、
これは基本的に弱者のためのものであることが同時に見えてくる。

前世、過去に業を積んだからあなたの現状は悪いものなんだというのは、
その原因がどうであれ現状がどうしようもないほど悪い人を納得させ、
瞑想等の修行に没頭させることで煩悩を断つことを目的としてる。

引いては苦しみから完全に解放されることを目指しているのです。

そのため、前の記事で書いたのですが仏教、引いては東洋思想は、
現状に抑圧等を感じている人がはまりやすい性質があるのですね。

ただ、仏教において個人的に欠陥というのはおこがましいですが、
残念だと思うのは過去を断つことに関してすさまじい力を発揮する一方、
仏教を深めると未来に一切目を向けられない可能性も高まるところ。

一切無我、個人として得るあらゆるものが常に揺らぐものであるのなら、
人生に意味を見出しどのように生きていくかを能動的に考えられない。

ようは、苦しみを断つことのみを目的として設定してる教えのため、
その先を見るにはまた別の方向性の視点が必要というのがある。

とは言え、これは当時の状況からすればある意味当然ではあります。

現代とは比較にもならないほど厳しい社会情勢であったことは確実、
精神的のみならず肉体的な病などの苦しみも原因がわからないだけ、
現代の人が感じるよりもはるかに重いものだったはず。

生まれた時から階級が決められていたことで先を見るということも難しい、
ようは生きること自体に圧倒的に大きな苦しみがあったと思われ、
そこから解放されることはそれこそ人生を通じた一大目的だった。

そう考えれば先を見ることではなく過去を断つことに全神経を注ぎ、
悟りを開くことを第一義であり全てとすることもおかしくない。

ただ、現代は少なくとも生きるということには比較的余裕がある、
その分他の煩悩が膨らんでいるという状況もありますが、
少なくとも余裕を持って生き意識をより活用することができる。

それだけ未来を見やすくなる、より良い先を目指していけるのですから、
仏教的な教えを過去を断ち新しい未来へ向かうエネルギーを確保する、
その手段として活用するのが現代では良いのではないかと思います。

と、根幹となる教え等についてざっとですがお話してみましたが、
改めてブッダとは人間理解をとことんまで深めた人であり、
仏教というのはそれ故に生み出すことができた教えだということがわかる。

まだ脳とか心理といった概念が存在しない時代にここまで人間の内面、
特に苦しみについての理解を深めたことは驚くほかありません。

表現が過激だったり科学的な価値観に慣れ親しんだ現代故に、
宗教とは時にあやしく見えてしまうものでもあるのでしょうが、
歴史を積み重ねた宗教は科学にも劣らない知見を多く含んでいる。

むしろ、それをどう活かすかというところまで考え抜かれた部分は、
時に科学では到達できない人間の本質につながっているのかもしれません。

少なくとも宗教だからと先入観から排斥したり逆に現代的価値観から、
内容等を歪めて変に解釈することは避けたほうがいい。

ありのままを見て、ありのままの理解に努め、
必要であれば人生に取り入れていく。

それが大事なんだということを学ばせてもらえた良書でした。

もし興味がわけばぜひ1度読んでみてください。


では、今回はここまでです。
ありがとうございました。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?