生を獲得する物語に幕を下ろした人間は乗り越えるべき壁を失った世界で何を見出すのか

人間の歴史は穏やかな生を手にするため障害を乗り越える過程であり、
同時に人が自然から離れて人間に近づいていく過程だと思う。

なお、ここで言う人間とは間の人という言葉の通りの存在。

間とは意識という自然から外れた理性的な部分と、
無意識という今なお残る動物的(自然的)な本能の間という意味です。

はるか昔、断片的な証拠から想像し仮定するしかないほどの時代、
人はまだ人間と呼べるほどではなかったと個人的には考える。

意識はあったかもしれないけれどそこまで活用できていたわけではなく、
どちらかと言えば自然的な世界観の中で生きていた。

だけど、自然的なあり方で生き残っていけるほど人間は生物として、
強力な特徴を有し他の生物と争っていける力はなかった。

だから脳を発達させ集団というあり方を発達させていく。

それが明確な形となったのは神話というものを人間が生み出した時、
神話とは自然的でどうにもならない猛威等を擬人化することで、
そこに因果関係、いわゆるストーリーを見出した時と思う。

そうして崇め祈る存在として明確な形を与えたのです。

神話によって人は人ではどうにもできない現状に意味を見出しはじめ、
それを精神的にうまく乗り越え前に進んでいこうと考えるようになった。

この時点を明確にどこと定めることは難しいですが、
これが人から人間へと大きく近づいた瞬間だと考える。

神話、記録も証拠も残らないような小さな神話が生まれた時に、
人は無意識的な世界観の中に意識という世界観の種をまいた。

そのように思うのです。

その種は徐々に成長し自分達は自然的な存在であると考える一方で、
徐々に意識的な側面、人間としての自我を発達させていく。

とは言えこの自我を発達させる、ようは意識的な影響力を強める過程で、
自然から外れていくことに対して抵抗がなかったわけではないようです。

例えばギリシア神話においてプロメテウスが人間に火を与えたことで、
主神ゼウスの怒りに触れ3万年の拷問の刑を受けることになった話。

火は使用するものではなく自然のままにあるもの、
無意識的な領分にあるもので大抵の自然物は火によって朽ち、
生物は本能的に火を自然の脅威として恐れるようになっている。

ですが、人間は火を扱う術を覚えたわけでこれは無意識的な世界観から、
意識的な世界観へと転換した1つの事例であると見て取れます。

ようは火を扱う術を覚えた時点で人は自然から一部であれ外れ、
そしてギリシア神話において火の扱いを覚えることはプロメテウス、
神という自然から与えられた恩寵であると考えられている。

だけど、火によって武器を作り戦争をはじめる原因の1つともなり、
ゼウスはそのことに怒りプロメテウスを拷問の刑に処した。

プロメテウス、火という自然の一部が意識的な領域に移った一方で、
ゼウスという主神、自然そのものである存在の怒りを受けるという表現は、
意識の力の有用性を自覚しつつ自然から外れていくことへの抵抗感。

罪悪感や転換していくことへの不安や恐怖が根底にあり、
それが神話として描かれていたと見て取ることもできる。

生きるために人は自然から離れていくという選択をし、
だけど自然から離れ例えば大きな争いなどを生むことを、
罪だと考えるような傾向もあったのでしょう。

後にプロメテウスはヘラクレスによって解放されるのですが、
ヘラクレスは半神半人の英雄として描かれます。

神と人、無意識と意識、自然と自我が共存する存在、
その表現だと見て取れるヘラクレスがプロメテウスを解放した。

これは自然から離れていくことへの抵抗感を半神半人という調和者と、
自然の怒りに触れ罰を受けていたプロメテウスの解放を描くことで、
何とか乗り越えようとしたのだと捉えることもできると思うのですね。

と、このように神話、ストーリーとして卓越した神話が生まれる程には、
余裕がある社会を構築できた時に意識と無意識の影響力は拮抗し、
自我が明確になっていく過程で人同士で相争う状況も生まれたわけです。

さらに時代が進み自らの宗教を正当として他者の信仰を否定支配下に置き、
集団として膨れ上がることで力を蓄え高度な社会を築く道を進んだ。

キリスト教はその典型だと言えるでしょう。

一神教であり神の前に全ての人間は平等であるという教え故に、
自らの神以外を認めず他のあらゆるものに対する信仰を拒否した。

それが原因で古代ローマ帝国において激しく弾圧されるも乗り越えて、
ローマ帝国の国教になった際には他の宗教を弾圧する側にまわった。

他宗教を弾圧し影響力を強め人を動かす力となり、
それは良くも悪くも社会を大きく発展させる。

ようは解決し難い自然的な障害を神話を元に乗り越えると同時に、
神話を軸として集団としての権力を高めていったのです。

高まった権力の元に何かしら設定された目的や目標に集中し、
1つずつ乗り越えながら徐々に人間社会を拡大していった。

それは無意識的なものを淘汰し意識的な側面を拡大する過程であった、
それが結実したと考えられるのが1517年に起こった宗教改革に端を発した、
キリスト教がプロテスタントとカトリックに分裂した出来事。

宗教改革以前、プロテスタントと言われていた教えは神を絶対とし、
人間は神の元に定められた基準による善行を積むことが大事とされた。

しかし、神の名を語る聖職者の支配や横暴に耐えかね不満を高めた民衆は、
マルティン・ルターの神の基準による善行を積むことではなく、
聖書という神の残したとされる書物を純粋に信仰すること。

それ自体に義や意味があるというカトリックの考え方を受け入れる。

こうしてカトリックとプロテスタントによる正統争いがドイツで起こり、
それは西欧に広く波及していき最終的に1600年後半まで、
西欧全体でキリスト教内の派閥争いが続いた。

で、この争いには派閥の分断以上に大きな意味があると考える。

まず支配や横暴が元であれキリスト教、神を一部であれ否定した事実は、
神の教えに縛られていなければ自分達はもっと良い生活を送れる、
(自然的な)障害があっても乗り越えていける自負が見て取れること。

自負、自分達は自分達で何でもできるという自信、
自然(神)を崇めたり祈ったりするのではなく自らの意志で、
自ら道を切り開いていけるんだという志。

つまりは無意識的な影響が完全に意識的な影響を上回った、
個々人としての集まりである人間社会という集団の中で、
表面的ではあれ意識的な世界観が優勢になったのです。

神ではなく聖書を信仰するというプロテスタントの考え方は神や聖書を、
崇める対象ではなく自分達の安定のための手段に変えたことを意味する。

それを自覚していたかはともかく意味としてはそのように転換し、
以降は人間としての意識的な側面が大きな影響力を持つ。

こうした視点で見ると宗教改革に端を発した争いが下火になった直後、
ニュートン博士に端を発する近代科学の飛躍が起こったのは興味深い。

科学とは人間的(意識的)な力の象徴ですがニュートン博士登場以前まで、
あくまでも宗教の説得力を増すための手段に過ぎなかった。

故に、例えばガリレオ・ガリレイの地動説主張が宗教の元に弾圧され、
他の誰も地動説について触れることができない状況が生まれた。

地動説が実は正しいということが広く受け入れられるようになったのも、
ニュートン博士が万有引力の法則を編み出してからだったというのは、
歴史の面白さを感じさせてくれる流れだと思います。

そうして無意識的な影響を宗教改革を転機に完全に乗り越えて、
科学技術を飛躍的に発達させていった西欧諸国はそれを背景に、
例えば日本における黒船来航のように外界への圧力を強める。

世界は意識的な世界観の元に急速に1つになっていき、
それぞれがそれぞれの思想を時に衝突させながら、
様々な障害を乗り越えどんどん高度な人間社会を築く。

そして現代において神話的(無意識的)世界観の影響力は風前の灯。

自然に対する畏怖や祈りは科学によって解明される事象に過ぎなくなり、
人間は個人として完成されている絶対の存在だという自負を強め、
人は個々人に至るまで尊重される権利があるという人権思想を生んだ。

以上の流れをざっくりまとめるなら以下のようになる。

  1. まず人は自然的なあり方として生まれだけど自然的なあり方では生存も厳しかったがために

  2. 意識的な側面を発達させ時にそのことに抵抗を感じながらも徐々に意識が無意識の影響力を上回る方向に進む

  3. 宗教改革とその終わりを転機として神、神話を否定し意識的な側面を本格的に発達させる

  4. 意識的な側面が完全に優勢となり現代のような高度な人間社会を築くに至る。

これを踏まえてこれまでの人間の歴史を統括するならこう言えるでしょう。

人間の歴史とは自然に生まれだけど自然にあれなかった人が、
意識的な世界観を発達させ人から人間になるまでの物語だと。

そして、この物語はもうすでに完結したと言っても過言でないように思う。

例えば日本という社会を見ても生物として生きること、
それ自体に困窮する人はいないと言えるでしょう。

一定の働きで衣食住、生命を維持し自然の脅威から身を守る術を手に入れ、
医療の発達によって寿命も伸びて自然死するまで生きることが当たり前に、
自然死以外の方が運が悪かったと言われるような社会が築かれている。

もちろん、世界全体を見ればまだ課題がある場所も多いですが、
全体的に見れば生きること自体に困ることのほうが少ない。

人は生を獲得し安定して次世代へと血を繋ぐ生物としての物語に、
自然から外れることで幕を下ろしたのです。

そして現代は次の物語の幕が上がったのだと思っている。

人として乗り越えるべき壁を失ったことで人間としてどうあるか、
どんな意味を見出すかの物語です。

そういう視点で見た時に世界はここしばらく混乱期だと言えるでしょう。

自然から外れ意識を発達させ個々人が自我を持った、
言い方を変えればそれぞれがそれぞれの思想を、
自身の中に1つの世界を構築しているとも言える。

自然、全てが1つの世界観の中では生のための争いはあれど、
それはそれでうまく噛み合い循環し1つの世界として回っていく。

だけど、世界が複数あるのであればそれは衝突するしかなく、
衝突したら片方が片方を飲み込むか完全に調和する1つの答えを得るか。

そのどちらか以外に解決する道はなくその最大規模の衝突が、
第一次、第二次世界大戦だった。

この争いによって武力による大規模な衝突の危険性を理解することで、
後の冷戦のように思想戦、情報戦、経済戦を主とする、
比較的静かな争いにシフトし水面下での対立が続いてきた。

そして現代において。

ロシア‐ウクライナ戦争、ハマスとイスラエルに端を発した中東の混乱、
中国中心の共産主義勢力とアメリカ中心の民主主義勢力の対立など。

第一次、二次世界大戦後も余裕ができてなお、
むしろ人間社会の外にある障害のほとんどを乗り越えて、
余裕ができたからこそ終わらない人間社会内の争い。

生きることに余裕ができたが故の思想対立と激化は必然だったのでしょう。

とは言え悪いことばかりでもない。

持続可能性、カーボンニュートラルなど意識的な側面を重視しすぎて、
蔑ろにしてきた無意識的、自然的なものとうまく調和しようという試み。

まあ、今はまだ怪しげなものや利権絡みで歪んだものも多い印象ですが、
意識的な側面に頼りすぎず調和した社会を築こうという志自体は、
世界全体が納得するような1つの答えを見出していく過程だと思います。

生を獲得するために自然から外れ人から人間となった人類は、
数多の障害を乗り越えて現代においてその目的を達した。

だけど達するために積み重ねてきた歴史によって得た意識的な力は、
それ故に逃れられない多くの問題をも生み出すことになる。

お話した思想の対立による多くの争いはもちろんのこと。

個人として世界と相対していかなければならないがための精神的な負担、
個を尊重する現代において精神的な病が爆発的に増えたこともまた、
個としてあっても世界(との関係性)から逃れられない反動なのでしょう。

個であるからこその新たな本能、金銭欲や権力欲、支配欲なども生まれ、
積み重ねてきた知が大きいだけそれを満たす手段もより多彩に、
時に凄惨に残酷になることもあります。

余裕を生んだ意識的な力が不要になる人も増えてきて劣化し、
衰えて徐々に動物に近づいていくような人も増えてきたことと相まって、
本能のままだけど自然の中では見られない残忍な事件等も起こる。

そしてそういった出来事は意識的な力によって構築された人間社会で、
決して許されることはなく時に排除される。

逆を言えばどれだけ意識的な側面による不都合があったとしても、
人間社会で生きる以上は意識的に考えることから逃れられないのです。

生を獲得するため意識持つ人間になって生まれた苦しみや悲しみがあり、
だけど生を獲得したからといってそれ以前に戻ることはできない。

今が苦しいからと過去に戻ることはできず目をそらすことも難しい、
否が応でも前に進むことを押し付けられていると言えるかもしれない。

これは他者や社会から押し付けられるといった生易しいものじゃない、
何千、何万年も積み重ねてきた歴史によって押し付けられるものです。

それは個人が背負うには重すぎるものであるが故に、
人間個人としてこの世界で何の悔いもなく苦しみもない、
そんな人生を最後まで送れる人はそういないのでしょう。

そんな中で世界全体、自然的なものと人間がうまく調和した状態を目指し、
日々様々なことを考え実践し前に進もうとする人達がいる。

個人的には先に話したように思想が違えば衝突するしかない、
少なくとも互いの思想の相反が実利的な影響を及ぼす時はと考えますが、
あらゆる思想等が共存するような状態を本気で模索する人だっています。

もしかしたら将来、思想が違っても互いに尊重し合える、
違うことを許容しうまく付き合っていけるような精神性を獲得する、
そんな答えを見出し1つの集団としてまとまる時が来るかもしれない。

どちらが良いかと言われれば当然後者のほうが良い、
まず人間社会の中だけであっても争いなく、
調和した穏やかな世界を見てみたい。

とは言え現代人が生きているうちには不可能でしょう。

だけど後世にその種となるものを少しでも残せる可能性があるのであれば、
例え微々たるものにすらならなかったとしても考えることはやめたくない。

かつて人が生を獲得するために神話の種を残した記録にもない誰かがいた、
その種が芽吹いて人は人間となり様々なものを生んだ。

それがきっかけとして後世の人間の1人でも、
そう思えるような歴史をここまで紡いできた。

であれば、きっと誰もが考えることに意味はあるはずだとそう思うのです。


では、今回はここまでです。
ありがとうございました。

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