なぜ人間は二元論にハマりやすいのか

どんな人でも少なからず二元論にハマってしまうことがあるでしょう。

現実とは流れであり相互関係によってその輪郭を表すが故に、
人間社会を動かすための暫定的な基準を定める必要はあれど、
世界に絶対的な基準というものはないと個人的には思う。

正しいことも間違っていることも世界全体で見れば存在しない、
全ては関係性の中であるがままに存在するものです。

ですが、自分は正義で相手が悪のような極端な考え方に偏り、
しばしば現実に沿わない思考や意思決定、選択が生まれる。

自由市場主義を全否定した社会主義、共産主義然り、
それが時に大きな対立や大惨事を引き起こすこともあります。

先に話したように人間社会は暫定的にであれ基準を定めないと、
動くことができないため人間社会で生きるということ自体が、
二元論的な考え方を助長する側面があると思う。

しかし歴史上、二元論的な極端な論調が引き起こした悪影響は多い、
資料として詳細まで残っているものも探せばいくらでもあるでしょう。

そこから学び現実に即したより良い影響を与えることもできるはず。

なのになぜ人間はいつの時代も二元論的な極端な考え方に偏るのか、
流れ、関係性として現実を見ることが難しいのか?

そもそも流れとして物事を認識する能力がないと考えられる。

人間には意識と無意識という2つの思考傾向がありますが、
無意識は目の前にあるもの(認識できるもの)が全てであり、
それ以外の物事を考慮する力がない。

加えて意識より影響力も持続力も強いため意識的な訓練を積まないと、
人間の言動は基本的に無意識の影響に大きく左右されることが多くなる。

ようは人間としてありのままの存在であることを重視するなら、
過去から未来へと続く流れ、人間同士の関係性の流れなど。

認識しづらいもの、できないものはないものとして扱われ、
軽視されるというか考慮されなくなっていくのです。

だけど、それだと人間社会はうまく回らないから意識を用いて、
思想や価値観、倫理道徳観を磨き積み重ね規律や規範を生み、
人間から離れた人間社会という意識的なシステムを構築した。

とは言え、結局のところシステムを運用し手を加えるのも人間。

加えて、最近考えていて思ったのですが意識は確かに無意識より、
理性的に、想像力などを駆使してより広範囲を認識できますが、
根本的に流れとしてはやはり物事を認識できないと思われる。

これは言葉での説明が難しいのですが流れそのものを認識するのではなく、
あくまでも1つの枠組みを点として連続で認識しているだけで、
流れそのものを認識できているわけではない。

例えば論理学ってその典型だと思うんですよ。

論理学をざっくり言えば前提からある結論(結果)を正しいと定義する、
それを応用して正しい前提から結果を予測することなどに使われるもの。

自然科学は現実を観察し結果を集め前提をきちんと定義することで、
普遍的な理論として確立する論理学の応用の1つだと言って良いでしょう。

そうして様々な論理を積み重ね現実を広く認識することが可能になった。

だけど、それはあくまでも個々の論理の集合体に過ぎず、
1つの流れ、関係性として現実を認識してるわけではない。

ですから例えばある現実に関係する複数の専門家がいたとして、
そこから未来を予測したり現在の結果の原因を特定しようとした時、
意見の相違や矛盾が出てきて対立することもある。

専門分野という現実の一部を切り離し深めた個々の論理を1つの流れ、
関係性としてまとめることが難しいからです。

つまり人間は意識を用いても個々の要素の連続として、
流れらしきものを朧気に見出しているに過ぎないということ。

しかもそれを可能とするには意識の能力を高度に求められることに加え、
消費するエネルギーも莫大なものになります。

先に話したように人間は基本的に無意識の方がより活動でき影響力がある、
流れらしきものを見出すにも意識に負担をかけ疲れさせ働きを鈍くすれば、
無意識が優勢になってますます現実を流れとして捉え難くなる。

結果、より楽でやりやすい方法で現実を認識しようとする、
それが二元論、単体の要素同士を衝突させ片方を正しいものとして、
もう片方を排斥しようとする偏った傾向であるのだと思います。

これを踏まえると例えば天才の代名詞であるアインシュタイン博士の偉業。

相対性理論の確立がなぜ偉業だったのかと考えるなら、
それは複数の物理法則を1つの理論として統合した。

流れとして、関係性として世界の解像度を上げるという、
人間にとって極めて難しいことを成し遂げたからだと思います。

そしてもう1つ、人間は複数の要素を1つのより広い概念として抽象化し、
より多くの物事を1度に考えることができるように見える。

ですが抽象化も複数の物事の集合体として認識できるわけではなく、
あくまでも抽象化された概念を1つの要素として認識しているに過ぎない。

そのため抽象化と具体化の間を行き来する、日本語では提喩といいますが、
それはそう簡単にできない難しいことだった。

科学の理論等を学んでもそれを即座に何かの発明などに使えるかと言えば、
大抵は使うことができず知識の域を出ないのはそのためです。

知識を現実に即したものに変え反映させるには現実に行動を起こし、
実際の経験を積まなければできないのですね。

知識だけは積み重なり抽象的な枠組みが頭の中に増えてはくるけれど、
現実の流れや関係性による複雑さに対応することは難しく、
二元論という楽でやりやすい方法にやはりハマっていく。

知識を元に意識的に考えるのではなく知識に合うように、
無意識的に現実を認識しようとする傾向に偏るのです。

と、いろいろお話してきましたがとりあえず、
もし二元論的な考え方に偏っている時があれば、
それは意識がまともに働いていない証拠だとまず自覚する。

そのうえで脳をきちんと働かせられるようなコンディションや環境を整え、
冷静に物事を見極めることを意識してみると良いと思う。

先に話したように人間社会は意識的なものを積み重ね構築されたもの、
それを運用するのが人間である以上、無意識的な不備も生まれますが、
それでも全体的には意識的な側面を是とする傾向で回っている。

意識的なもの、つまりは過去から未来への流れ、国という関係性の枠組み、
全体をより良く統括する思想や価値観、倫理道徳観が優先されます。

短期的には乱れ反意識的なものが優勢になることはあっても、
中長期的に見ればほぼ確実にそのようになると言いますか、
そのようにならなくなった時おそらく人間社会は崩壊するでしょう。

そういう社会、あり方の中で生きていくには意識的な側面の活用が大事、
故に上記のような二元論的傾向の自覚、意識力の訓練、
能動的にコンディションや環境を整備できる能力。

そういったものを磨くことがより良い結果をもたらすのではないかと、
そう思ったというお話です。


では、今回はここまでです。
ありがとうございました。

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