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【小説】奔波の先に~井上馨と伊藤博文~#151

26 明治14年の政変(5)

 海軍卿の榎本武揚の失言とされる出来事が薩摩系の将校と関係の悪化を生んでいた。榎本の処遇については、馨も考えるところがあって、新設された農商務卿にと考えていたが、黒田からフランス公使の意見も出て、薩摩と対立していた。結局宮内省御用掛に落ち着いた。
 財政問題もまた再燃してきて、博文には頭の痛いことが続いていた。しかも馨の不在をついて、大隈は輸出促進のための会社を作っていた。
「大隈は、拡大策を諦めんのか。聞多はこれをどうかんがえるか。しかし議会のことを考えると、まだ大隈の協力が必要になってくるんじゃ」
 博文は一層焦りを感じていた。

 憲法案を巡って、井上毅の動きは、一層激しさを見せていた。
 博文は岩倉や井上毅の動きにも、憤りを感じるようになっていた。そして、うまくいかないのなら辞職をほのめかすようになっていた。
 それを知った井上毅は、博文本人よりも周辺から働きかけた方が良いのではと、思うようになった。

 井上毅は京都の岩倉の元を訪ね、その足で安芸の宮島で静養中の馨にも会いに行った。
「おぬしが井上毅くんか。伊藤から聞いてはおったが。憲法のことか」
「療養中のことで申し訳ありません。伊藤さんに理解いただくのに、井上さんにまずご理解いただいた方がと思いまして」
「わしは医師から、囲碁将棋のたぐいも自重しろと、言われとるんじゃが」
「まだ、細かいところまでを、考えいただくわけではないので、ご勘弁ください」
 井上毅の律儀そうな反応を見て、馨は苦笑いをしていた。
「プロシアを参考にしろと、言いに来たのじゃな」
「イギリスで学ばれたのは承知しております。ですが、議院内閣制は危ういことだと考えています。福沢諭吉の考えは危険であります」
 井上毅の説明は熱を帯びてきて、ほとんど演説になっていた。
「天皇の、君主の権原に制限を加えることは、最小限であるべきです。それは政府の権限でもあります。国会においても重要事項は極力議題とすべきではないのです」
「そうか、おぬし、わしが国家財政の状態を公表して、罰金を払ったことがあるんを知っとるか」
「もちろん存じております。なれどそれは根本のことではありません。国家元首たる天皇陛下の地位を確立してこそ、日本のあるべき形と信じております。議会はそれを輔弼するものであるべきなのです」
「良うわかった。井上君の考え、しっかり刻んておこう」
 井上毅は、手応えを感じて、宮島を後にした。馨も博文に、元老院の改革ぐらいで留めることのないよう文をしたためていた。そして、やっと静養から東京に帰ることを決めた。

「聞多、やっと帰ってきたんじゃな。僕はあちらこちらと、振りまわされっ放しだったんじゃよ。もう、頭痛とかは大丈夫なんじゃな」
「あぁ、心配かけてすまん。大丈夫じゃ」
「早速だが、これだ」
「これは。大隈の意見書じゃな」
「そうじゃ。聞多の意見が聞きたい」
「これは…」
 馨は博文から渡された、大隈の意見書の写しに目を通していた。読んでいるそばから、怒りがこみ上げてくるのがわかった。
 なぜこのようなイギリス的な議会方針を大隈が。これでは、福沢の受売りであることが、明白ではないか。政府の中では、保守的だがプロイセン・ドイツ的な考えが、優勢になっていることに気がついていないのか。
 これでは民権派に媚を売っていると見られても仕方がない。そうだ、この国ではまだとりあえず、政党や議会に関しては、制限を加えざるを得ないのだ。
 そうして、次の段階を迎えたら、政党政治を仕組みに取り入れていく、そうやって緩やかに進めていく。これがこの国の現実ということだ。
「ふははは、かの大威張先生は、このようなものを出して恥ずかしくないのかの。さっきまで、有司専制で勧業策や、ひたすら金を回す事に、打ち込んでいたかと思えば、今度は民主的に議院内閣制とはの。呆れてものが言えん。こげな福沢の受売りで、誰が動くというのかの」
一息入れて、馨は博文に向き直った。
「いいか、俊輔、わしはプロイセンの立憲君主の考え方を、日本の皇室の考え方とすり合わせて、行うべきだと考えちょる。それに、議院内閣制は政党の育成を含めて、時期尚早じゃ思う。今の民に、フリーハンドの選択を与えることなど、良い結果になるわけがない。わしらはより良い選択ができるよう、整えていく必要がある、と思うんじゃ」
「聞多の言うことはよくわかる」
「俊輔、おぬしがこの事態を治められるよう、考えをまとめていこう。それでええな。財政整理についても、考えはあるしの」
「僕らは一致して、このことにあたっていくのだな。聞多、大隈とはもう切ってくれるんじゃな」
「当然じゃ。わしは、俊輔とやっていくのじゃ。そのことに疑問を持ったことはないぞ」
 そう言いながらも、馨は理想が現実に追いつかないこと、切り捨てていかねばならなくなった思いに、心が傷んでいた。
 そして、馨は自分が主導権を持って憲法を、立憲政体の確立に動くのは難しい事態だと悟った。自分は「イギリス的」すぎるのだ。
 大隈のこの意見書は、余計なことをしてくれたとしか、思えなかった。そういう意味では、博文が大隈と手を切れといったことに、少しの救いを感じていた。

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