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I氏の告解

 電車に乗る。周りを見る。見たところ、知り合いはいない。コートのポケットの中の拳銃に触れてみる。冷たく、固い。感触を味わいながらそっと目を閉じる。混然とした交差点。晴れた空。私は15cmほど右足を引き、真っ直ぐ拳銃を構え、右往左往する目蓋の裏側のイメージを一つずつ着実に撲滅していく。撃ち殺したとて、内臓や血しぶきは出てこない。悲鳴もない。それは、当然イメージだからである。

 悪いとは何か。なににせよ、「自分たちは悪くない」というもの言いは醜悪だろう。少しばかり察しが悪いけれどこれは病気なのだから悪くない、肌の色が違うけど悪くない、自由だから悪くない。実際のところさして重罪ではないのかもしれない。しかし、そもそものところ、悪いから何なのだろうか?私たちは、多かれ少なかれ悪くそして脆いのだ。

 ここで問題としなければならないのは悪いものに対し、だれが罰を与えられるのか?であり良いか悪いかではない。論点をずらしただけで、同じことではないのか?というのはあまりに的外れだ。悪いことと裁くことの間には、天と地ほどの差がある。その差を実際的な結果的な差異だけで見るのは、短慮に過ぎるだろう。わたしたちは目に見えるものだけで生きているわけではないし、悪いがしかし許される、という、矛盾した境位がある。理にかなわず、中途半端に放っておかれるのが私たちの生であり、時間だ。淡々と穴を掘り続ければ、演繹的に答えが導出されるだとか、誰がやっても同じ答えが出るとか、そんな簡単な仕組みで世の中はできていない。単純に見えるのだとすれば、見るものがそれしか見ないからで、わからないもの、なにか残りがある、という留保を失っているからだ。然も分かった顔をしているのが当たり前だとか、あまつさえ自信ある立派な態度だと勘違いしている。

 目を開ける。電車内は魑魅魍魎の妖怪ばかりである。サラリーマンのような造形をしている物もあれば、いわゆる「表現者」といった風体の物もある。それぞれがそれぞれの形で欲望し、アイデンティティを粘土のように固めている。井上円了はもういない。眼鏡をティッシュペーパーで拭く。ヘッドフォンを付ける。ヘッドフォンから、大音量のマーチが流れてくる。

 では許す、というのもまた違う。石を投げないことと許すことは違う。何なら石は投げても、どこか別のところへ飛んでいってしまうかもしれないし、届かないかもしれない。名投手でもなければ外れる方が大概だ。許すのは得てして関係の無い他人であり、人は人を気軽に許すことはできない。そもそもがおこがましいと思わないのか。「私は気にしてないよ。そんなこと。」と、高いところからお許し賜って、頂戴する側はどんな気になるか。許す者は禁じる者と等しく、禁じられる者だけが許すことができる。何様のつもりか

 虐殺的で、やけに陳腐なマーチがひとしきり鳴った後、ヘッドフォンから声が聞こえる。

 いや、敢えて加害者意識を持ち「許してやる」ならまだわかるかもしれない。これなら、石を投げるのとあまり差はないかもしれない。結局そういう小さい者同士、悪い者同士、という引き受けがあると言えなくもない。良きもの、讃えられるべきものが他にある、という謙虚さが悪しきものにはある。悪いなら悪いなりに良くしようとするのは当然だが、やってなお悪いのが私たちの生なのかもしれない。

 車窓を見つめる。晴天の都市に真っ白な雨が降っている。空き缶や笑い声、群像やらを綺麗に漂白するその様は浮世絵を見ているようである。身体は湿り、水が滴る。

 もうそれだけで足りえたのかもしれない。
 
 「信仰の必要ない人間」というのは、ほとんど「人間ではない」のと同じことだ。信仰を必要から考えてしまった時点で、既に見当違いな場所を見ている。石を投げるために信仰が必要なのか、許されるために信仰が必要なのか。神があなたを選ぶのであり、あなたが神を選ぶのではない。必要なものがあるとしたら、それは既にすべて与えられてしまったのだ、という気付きのみから、始まる。
 
 銃声が鳴る。感覚はまるで無い。ヘッドフォンから無音が流れている。

 何かを必要とし、必要とされてきた生、時間が無数の貴方の前を通り過ぎていく。自分の無知もわからずに何かを許し、そして罰していくのだ。

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