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日本民謡と内臓の身体性について

以下は、バンド“水いらず”の井上真(vo,gt)への新曲「su-mu」についてのインタビューです。聞き手はサポート・ベーシストとしてライヴや同曲のレコーディングにも参加し、ライターとしても活動している辻本秀太郎。
筒井康隆から小泉文夫まで、水いらずを知らない人でも興味を惹く内容となってます。本インタビューが、「su-mu」を紐解く一助となれば幸いです。



西洋のマーケットとは別のところでやりたいなと思った。

●新曲「su-mu」は、“日本の民謡”が曲作りにおけるキーワードになったとのことですが、昨年リリースした1stアルバム『ほとんど、空』の頃からそういった関心はあったんですか?

井上:前作は、内省的なものを作りたいと思っていて、中2病的な“自分とはなにか”みたいなテーマがあったんだよね。でも、そういうテーマは“もういいかな”ってなっていたときに、筒井康隆の『残像に口紅を』という本に出てくる“内在律”というワードを思い出して。
これは近代詩において、例えば“五七五七七”みたいな短歌の形式がわかりやすいけど、そういう定型に縛られずに自分の鼓動や内側にあるリズムから詩を書くことができないか、っていう動きのなかで生まれた言葉で、筒井康隆はそれを短篇小説に応用したみたいで。
つまり、なにか新しいものを作ろうと思ったときには自分の“内在律”を知ることが有効だと。それを知らないままに新しいものを作ろうと思っても、歴史とか文脈とか、自分が影響を受けてきたものとかに従って作ることになるから、結局は凡庸なものになってしまう。
これは自分も経験があるからわかるんだけど、音楽だったら、メロディ癖とか、歌詞癖がやっぱりあって。そういうものを避けるには、自分は日本人なので、日本の音楽がどういう流れで今ここに至っているのか、なぜ自分はこういう日本語の曲を作ってしまうのかってことを知ることが大事なんじゃないかと思い始めたんだよね。そこから、民謡への関心も始まった感じだね。

●なるほど。でも、それにしても遡り方がすごいですよね(笑)。
日本のポップス史やロック史にとどまらず民謡に目をつけたのは、やはり“西洋の文化が入ってくる前の音楽”というのがポイントなんですか?

井上:うん、その頃ちょうど別の観点からも日本に興味が湧いていたんだよね。前のアルバムを作ったときに、SubmitHubっていう海外のミュージシャンやキュレーターに曲を提出できるサービスを使ったときに、“よくわかんない”っていう反応が多くて(笑)。
でも、まぁ腹は立ったんだけど、“わからないのは当然だな”とも思ったんだよね。
というのも、“日本にはこういう音楽の蓄積がある”っていうバックグラウンドの前提がないと、“この音楽は新しい”っていう評価をすることはやはり難しいと。
じゃあそうなったときに、海外の人に合わせるという方法もあるけれど、僕らはむしろ西洋のマーケットとは別のところでやりたいなと思った。
そんななか、日本の歴史を調べていったときに、絵画とか思想とか音楽とか西洋の文化が入ってきたのは明治以降が多いということがわかってきて。じゃあそれ以前の音楽を掘り下げてみたら、新しいものが作れるかもしれないと考えたんだよね。

●制作中に、メンバーが古事記や日本書紀の話をしていたのが印象的だったのですが(笑)、けっこういろいろ読みましたか?

井上:あれはけっこう終盤のほうで、最初は民謡を調べようと思って民謡音楽の研究者として有名な小泉文夫の本を読んでいて。
彼は、民謡の音階やリズムを理論的に体系化した人で、坂本龍一とか細野晴臣にとっても師匠みたいな人だと思う。そのあと、音楽に通じる日本の文化や思想にも興味が湧いてきて、古事記とか日本書紀を論じている戦後の思想家の加藤周一という人の本も読むようになったって感じだったな。

●そういった様々な研究の成果は、「su-mu」には具体的にどう落とし込まれていますか? まずは音楽面から聞きたいです。

井上:まずはリズムだよね。小泉文夫が論じているもので、アジア的なリズムと西洋的なリズムには大きな違いがあるんじゃないか、というのがあって。簡単に言うと、西洋とアフリカは親和性が高いんだけど、いずれも“反復のリズム”だと。
一方でアジアのリズムは、例えばインドのものやインドネシアのガムランが良い例だけど、あまり反復性がなくて、拍の長さもテンポも急に変わったりすると。
それで、“反復性のないリズム”というものに興味が湧いて、今回の曲では南インドの口でやるリズム“コナッコル”をリファレンスにして、YouTubeでリズムの取り方を見ながら作っていったんだよね。南インドの人たちは超上手いから、そこまで真似はできなかったけど、手法を真似たって感じ。
具体的には、小節をすべて16分に分割して、西洋音楽的に“16=4×4”とか“16=2×8”みたいに均等に捉えるんじゃなくて、もっと自由に分割して再構築するイメージ。「su-mu」だと、例えばギター・ソロのある間奏部分は、16分音符48個(3/4のリズムで4小節分)を“48=12+12+12+12”ではなくて、“48=3+5+7+3+4+5+3+4+3+3+3+3+2”と捉えて演奏していて。全体としても、コーラスもこういう考えで配置しているんだよね。ドラム・パターンもわりとこれに近いと思う。

●音階についても、こだわりがあったとか?

井上:音階もかなりこだわっていて、微分音というものを使っている。
これは実は前作を作っているときにジェイコブ・コリアーの曲で知って、「あと」という曲でも導入しているんだよね。さっきはリズムの話をしたけれど、音階でいうと西洋の音楽の特徴は12平均律(※1オクターブの音程をきっちり12等分した音階のこと)にあると思っていて。
でも、例えばトルコの音階が27個だっていう話だったり、ドレミファソラシドだけじゃない世界があるということを小泉文夫の本で知って、世界が開けたような気がしたんだよね。今回の曲では、いわゆる“雅楽っぽい音”の周波数を計算して、ギターで試行錯誤しながらそのチューニングを頑張って作ったり、それをコーラスで再現してみたり、自分で音階を作るという作業をやっている。

●西洋音楽のシステマチックな面からいかにして離れるか、というのが「su-mu」において大きなテーマだったと。
 
井上:うん、西洋音楽は本当に論理的によくできていると思う。英語という言語自体もそうだしね。一方で日本の民謡は、特に追分様式っていうものとかは一回限りの体験としての音楽で、感情によって拍の長さが変わったりするのね。
それがいわゆる“間”というやつなんだろうけど。だから、体系立てることも難しいし、“論理的じゃない”音楽だと思う。
今回の曲はある意味矛盾した表現になるけれど、そういった“論理的じゃないもの”を論理的に作ろうとしているものだと言えるね。

“内臓の身体性”っていう言葉は水いらずとして宣言してもいいんじゃないか。


●歌詞についても聞きたいと思います。まず、「su-mu」というタイトルはデモのかなり早い段階からありましたよね?

井上:直接的な音楽や歌詞を作りたい、と最近は思っていて。
今の社会ってやたらと間接的な情報ばかりがあると思うんだよね。例えばどこかで人が亡くなったときに、それを直接見た人がいて、それをキャスターが伝えて、そこに感想が加えられたものがあって、それを介して自分はその情報に触れるという。
では、“直接的なものとは?”となったときに、言葉の起源は“動詞と名詞のどちらが先か”という話があって。まぁそこにはいろいろな理論があるんだけど、
でもいずれにせよ“動詞”にはなにか直接的なものを表現するうえでのヒントがあるんじゃないかという気がして。
次のアルバムも全曲動詞をタイトルにしようと思っているんだよね。そういう文脈で、最初は「生きる」っていう曲名にしようと思った。でもそうすると自分たちの意図しない文脈で解釈されかねないと思ったから、それに代わる表現が欲しいなと。そこで、英語だとLiveは“生きる”だけど、“住む”でもあることに気づいて、“住む”という言葉について調べるために日本の大和語の語源を調べてみたんだよね。
そうしたら“す”には、定住するの“住む”もそうだし、棲息するの“棲む”もそうだし、水が“澄む”っていうのも全部含まれていたらしいということがわかった。
つまり、“すむ”はいずれにしても“静的ななにか”を表していて、それがおもしろいと思ったんだよね。
 
●この曲は終盤で“今”という言葉を繰り返していますが、ここにはどういった意図があるのでしょう?

井上:加藤周一が書いていることで、日本というのは全てを水に流しちゃって歴史というものへの自覚がないというのがあって。日本では“今”というものがすごく重要なんだと。
彼は雑種文化論という考えのなかで、“西洋的なもの”には神とか宗教とかなにか根本たる幹みたいなものがあって、すべてがそこから枝葉分けがされているけど、一方、そういう上位概念が希薄な日本には幹がなくて枝葉だけがあるみたいな状態だから、文化についても常に雑種的だと言っていて。
だから、日本を“純粋化した日本”として捉えることは相当難しいし、それがこの国の“論理的じゃなさ”にもつながっていると。
これは特にコロナ禍で自分としても実感があるけど、健忘症というか、すべてを忘れていってしまう感じがやばいなーと思っていて。今のSNS的な通示的というより共時的な感じとか、少し前にあったような過ちを繰り返してるのは良くないよね、という。だから、加藤周一からの影響が大きいけど、“今”というのはこの曲のテーマになっていると思う。

●時間についての話で言うと、中盤でサンプリング・パートがあるじゃないですか? 
あれは、コカ・コーラのCMとか、1964年オリンピックのラジオ放送とかをサンプリングいるとのことで、日本の歴史の歩みを表しているとか?
 
井上:このサンプリングは、中国の雅楽とか最初はアジアのものから入っているんだよ。つまり、日本に輸入されてきたいろんなものを入れてみようという試みで。
さっきの話にも通じるけど、純粋な日本というのはないと思っているなかで、雑種的なものとか、現象的なものとしての日本をサンプリングで構造的に表せないかって思ったんだよね。

●終盤の歌詞には“襖閉じれば、ここにいられる ヒトが死んでも、ここにいられる”というラインがありますが、ここはどういう考えで書きましたか? 
“ヒトが死んでも”という表現は、先ほど出てきたSNS的な“間接的な情報”や“共時的な時間感覚”の話にもつながりますよね。
 
井上:そういう時間的な話もあるのと、空間的な話もあって。
まさに襖の話がそうだけど、奥に行くほどプライベートな空間になっていくというか、そこにはウチとソトの明確な区分がある。そして日本にはウチとソトをつなげるような上位概念がないから、外界への関心とか交流がなかなか起きづらいと。
一方、西洋にはキリスト教という確固たる上位概念があって、自分たちが絶対正しいと思っているから、外に布教しに行くわけじゃない? そういう“普遍的ななにかを目指す”というのは、日本ではなかなか起きないんだよね。
ウチとソトの区分がはっきりあって、ソトでなにが起きていようとウチが良ければいい、みたいな。

●なるほど。この曲での井上さんは、そういう日本の状況を批判的に捉えている、ということなのでしょうか?

井上:“すべてをすぐに忘れてしまう”ことに関しては、自分自身もそういうところあるなって思うので、肯定もありつつ否定もありつつの中立的な感情かな。
Aメロに“記憶剥いだら 常世に、日常にここにいられる“っていう歌詞もあるけど、ここでは記憶がないこと、全部忘れることはある意味ハッピーに生きるためのヒントかもしれないと、すごく肯定的な書き方をしているよね。
でも一方で、やっぱり“同じ過ちは繰り返したくない”というのは当然あるじゃん?
日本の状態としても、ネオリベ(ラリズム=新自由主義)みたいな考え方が増えていることは、あまり良い方向じゃないと思っていて。
ネオリベをどう定義するかは難しいんだけど、“記憶を否定するもの”みたいな話があって。保守っていうのは、歴史的なものを大事にしていて、それを踏まえてなにか新しいものを考えるっていう感じだけど、彼らはそうではなく、歴史とは関係なしに新しいことをしたいみたいな方向性があるんだと。
こういう流れに対する疑問はやっぱりあるよね。

●なるほど。先ほど、“次のアルバムは全曲動詞をタイトルにしようと思っている”と言ってましたが、次作はどんなものになりそうですか?
 
井上:最近、自分たちがやっている、“アジア的なものを抽象化してやる”っていう取り組みを“内臓の身体性”っていう一語で表せないかと思っていて。いわゆる音楽における“身体性”っていうとアフリカ的なものが想像されることが多いと思うんだけど、そこでの“身体性”っていうのは、腕とか足とか人体の外側の部分によるものだと思うんだよね。
でも、身体には内臓もあるわけで。例えば、「su-mu」のギター・ソロのある間奏部分も身体性は明らかにあるんだけど、歩いたり走ったりっていう外側の規則性のある身体性じゃなくて、鼓動の速さとか自律神経みたいな内側からの規則性のない身体性が表されてる気がするんだよね。自分の外部に論理を求めるんじゃなくて、
自分のなかにあるものに従って行動なり言動がされるという。
西洋には確固たる上位概念がある、みたいなさっきの話にもつながるし、“内臓の身体性”っていう言葉は水いらずとして宣言してもいいんじゃないかと思ってる(笑)。
アルバムについては何曲か構想はあるのだけど、すごく具体化が難しそうで、時間かかるんだろうなって今から気が重くなってます。

●水いらずは、井上さんだけじゃなく、小宮山くん(dr)と桜井くん(key)もそういうことを考えているからすごいですよね(笑)。

井上:「su-mu」というワード自体はもともと桜井くんからもらったし、“アルバムを全部動詞にしよう”とかも、みんなで話していたわけじゃないのに、ふたりからそれぞれそのアイディアが出てきて。このときは、すごいなと思ったね(笑)。
あとは、最近ヴァン・ダイク・パークスの『Tokyo Rose』っていうアルバムの存在を知って、日本の貿易摩擦を曲にしたり、開拓時代のアメリカと能を混ぜたりしていて、ちょっとヤバいアルバムなんだけど、これが「su-mu」にちょっと似てるかもって思って。この話を桜井くんにしたら、“僕はこれを意識してました”みたいなことを言っていて。“じゃあ言ってよ”って話なんだけど、このバンドにはそういう部分はあるかもしれないね。
前作から曲をDTMで作るようになって、そのやり方は自分たちに合っているとは思うけど、最近は3人集まってもパソコンいじるだけだから、たまには音楽やりたくなるけどね(笑)。「su-mu」もライヴでやっていきたいと思っているので、かなり難しい曲だとは思うけど、“スタジオで鍛錬する”みたいなバンドマンらしい時間をたまには楽しもうかなと思ってます。

(取材:Shutaro Tsujimoto)

楽曲はこちら

歌詞

過去があるだけ
記憶剥いだら
常世に、日常に
ここにいられる

燻る青さが
血肉覆えば
名前変えたら
見えた気がした

襖閉じれば、ここにいられる
ヒトが死んでも、ここにいられる
昨日なくても、ここにいられる
いま、いま、いま、いま



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