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高校の頃、進路に悩みになやんだ話

したいことのなかった私は、進路を選ぶことがすごく難しい問題だった。
受験勉強なんかより行き先選びが辛かった。
そんな私が専門学校に行くまでの話。

思えば1年生の頃から悩んでいた。
大学見学で4大、短大、専門をそれぞれ見に行った。
ピンとくるところは見つからなかった。

高校時代、2年生の夏頃。
まだ思い詰める時期でもないのに悩みに悩んでいた。

気がついたら病んでいた。

休み時間は小説の中の物語に逃げて、
放課後は楽しい雰囲気の部活に逃げて、
現実逃避をしながら、だましだましで学校に通っていた。

でもいよいよ授業中に息が苦しくなることが増えて、
自分の本心を隠して周りを騙しているようで耐えられなくなって、
登校拒否になった。

自分の好きなこともわからない、したいこともない。
生きていたいと思わない。
そんな自分は社会の役に立てない。

自分が生きていたら家畜はその分余分に殺されないといけない。
二酸化炭素は無駄に増える。電気も、お金も無駄になってしまう。

いない方が、いなくなった方が社会のためになる。消えたい。
論理的に考えて自分に価値なんかこれっぽっちもない。
むしろいなくなった方が価値がある。

そう思った。

母と姉と自分、3人で話し合いをする機会が設けられた。
簡易版の家族会議のようなものだった。
自分にとっては尋問のように思えた。

根拠のある失望を泣きながら話した。

家ではニコニコして、喧嘩が起きたら仲裁をして、誰よりも穏やかで。
そんな悩みなんかなさそうにしていたからすごく驚かれたと思う。

「生きていたって意味がない。」

そう言ったとき、母が呆れたような口調で、避難するような口調で、しかめっ面で「はぁ?なにこいつ意味わからん」と言った。

その言葉だけは今でもはっきりと思い出せる。

失望が絶望に変わった。
突き放されたような感覚だった。
傲慢にも自分は愛されていると思い込んでいた。
思い込んでいただけだった。

もう誰とも出会いたくない、話したくないそう思った。

姉は焦った様子で母をなだめようとして、
イライラ怒った様子の母と何か言い合っていたと思う。
よく覚えて居ないけれど。


その日の夜、自殺に関して調べた。

10時には寝る習慣があったのにその日は、
翌朝の3時ごろまで眠れなかった。

そして自殺は案外簡単だけど自分以外に迷惑がかかることを知った。

例えば、線路に飛び降りは電車を遅延させてしまうし、
死体の処理をしなくちゃいけないのは駅員さん。
慰謝料が膨大にかかるから家族に迷惑がかかる。

それに加えて自殺は家族・親戚・知り合いが、
世間に非難されてしまうことになると知った。

そんなことは別に望んでいなかった。
周りを恨んでいたわけじゃなかった。

だからいい方法が見つかった時にすぐに死ねるように遺書を書いて、
遺品整理が簡単になるように、
家族に不自然に思われない程度に部屋の片付けをした。
あまり時間はかからなかった。

自殺の準備が整ったことで少し気が楽になったからか、
相談できる似た考えの恩人ふたりに会ったからか、
学校に顔を出せるようになった。

辛いことがあって死にたいと恩人のひとりが言った。
本気みたいだった。必死になって止めた。他人事に思えなかった。

自分は準備までしていたくせに、その人には死んで欲しくなかった。
最終的にその人は死ななかった。自分勝手に安心した。


春になった。

三年生になった。
母は前に自分が言ったことをすっかり忘れているようだった。
だから自分もなかったように振る舞った。

進路希望用紙が渡される時期になった。
先生が私に合いそうだといって、
柔らかい校風の合いそうな国公立4大を紹介してくれた。

見学に行ったことがあって嫌いじゃなかったからそこを書いた。

家に負担をかけたくなかったから
学費も安くていいなと思った。

学力に関しては今から本気で頑張ればいけそうと言われていた。
でも本気で勉強をする気にはなれなかった。


夏になった。

周りの早い人は推薦やAOで進路が決まっていった。
不思議と焦りは感じなかった。

そのうちまた調査用紙が配られた。

第二、第三希望などを書くところがあった。
先生に学力に関して指摘されないように、
国公立に加えて私立も短大も書いた。
行くつもりなんてなかった。


秋になった。

国公立の推薦枠が自分に回って来た。
先生から志望理由書を書くように言われた。

思考にもやがかかった状態で志望理由書を書いた。
何を書いたか全く覚えていない。

面接練習でなんども志望理由を聞かれた。
その度になんども嘘をついた。

息がしづらい感覚があった。
でも何も言い出すことはできなかった。

だましだまし練習に何度も参加した。

また調査用紙が配られた。

進路が決まっている友達のうち3人が、
同じ専門学校に行くみたいだった。

それがきっかけで調べた専門学校と、今まで通りの国公立、私立大学はセンター試験の結果が良ければ学費が国公立なみになる穏やかそうな校風のところに変えて用紙に記入した。

国公立と私立と専門学校。どれかには受かるだろう。
受験のことが話題になるたびにそんなことを言っていた。
周りから見ると受験生とは思えないお気楽ちゃんが出来上がった。


冬になった。

国公立推薦の書類を用意して、
準備が揃った。

出願の直後だったと思う。
限界がきてしまった。
耐えきれなくなって先生に泣きながら告白した。
先生は話を聞いてくれたけどどうしようもなかった。
出願を取り消してほしいと言う勇気もなかった。

そして国公立の推薦試験、面接日を迎えた。
国公立とはいえ、その試験はほとんど落ちない推薦だった。

面接では熱意はないけど、当たり障りのない受け答えはできていたと思う。
でも、だからこそ、面接が終わったとき、受からないな。と思った。

母にそのことを伝えたら「そっか、でもまだ結果が出たわけじゃないしわからんよ」と言われた。
学費が安いし就職先も安泰だから受かっててほしいんだろうな。
そんなことを思った。

私立の受験はセンター試験で決まる感じだった。
落ちないだろうな、となんとなく確信していた。
一応は国公立に向けた勉強をしていたから。

専門学校の試験は面接だった。
面接では主に写真の話と友人の話をしていたと思う。
国公立の面接と比べて話しやすかった。
面接が終わった時、受かっただろうな。と思った。

2月、結果が出た。
やっぱり国公立だけが受かっていなかった。

受験先に関して、将来に関して投げやりだったけど、
これで誰にも気を使われない。と少し安心した。

私立と専門学校、悩んだけどこんな自分だから何か手に職をつけよう。
早く就職できた方が迷惑もかからないから。

そう思って専門学校に決めた。


春になった。

専門学校は、自分より楽しそうでキラキラしている子がいっぱいいる。
将来やりたいことのために来ている子もいる。
なのに自分は消去法でここに来た。

そのことに引け目をいちども感じなかったわけじゃない。

でも、同じように迷って悩みながらここにきた人もいたし、
悩んだ末にどこか別のところからここに入り直した人もいた。
自分もここにいていい。そう思えた。

そうしていろんな人と出会って、
その人たちの好きなことを自分も一緒にするようになった。


いつの間にか消えたいと思う自分は居なくなっていた。


そんなお話。

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