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「バンカラ高校に禮はありますか?」 35年前の地方VS平成の首都圏 (中編)

先日、「北関東に旧制中校の流れをくむバンカラな男子高校が存在し、その一部の校風に二重カースト(女性かつ勤務形態の差)によるショックを受ける。」という内容の記事を読みました。女性の年齢から勤務したのは平成10年代から30年代だと思われます。

ばん‐カラ【蛮カラ】読み方:ばんから[名・形動]身なり・言葉・行動が粗野で荒々しいこと。わざと粗野を装うこと。また、そのような人や、そのさま。「ハイカラ」に対する造語。「—な学生」「—を気取る」

Weblio辞書より

わたし「今もそうなんだ(そんな高校がある!)」
ショックを受け、思い出しました。

おそらくこの北関東の男子校と同じ気風をもつ高校に通っていたからです。なかでも、出身中学別に郷友会という何とも呼べない存在があり、各中学校によってカラーが違い、高校が管理しにくいものでした。

郷友会は昭和のPTAと同じく自動入会となります。わたしが自動入会した某・郷友会は身なりや言葉は普通でした。行動は<荒々し>くはありませんが、違和感がありました。

この某・郷友会を語るうえで象徴的な例が文化祭の灯ろう作りです。
灯ろうは生徒が作ります。前庭に飾られ、コンクールで出来を競いあいます。審査員は校長先生ほか。詳しくは忘れました。

この灯ろうはクラス単位ではなく出身中学別に作ります。わたしの出身中学は毎年優勝を争うレベルでした。

灯ろうは学校ではなく、地元の山で作ります。
原型の竹枠を組み、文化祭の前に運び込みます。リヤカーにのせ、夜出発し、朝到着です。その日は授業があるので、授業を受けます。

普段は電車で30分程度のところを数時間かけリヤカーで押していくそうです。
徹夜だともいわれましたが、参加してないので分かりません。

もし学校に着くのは夜だとすると、朝までどこで寝ていたんでしょう? 
分からないことだらけですが、ともかく、企画から学校に運び込むまではすべて男子がします。

わたし「なぜ学校で作らない? ほかの郷友会は学校で作るのが大半なのに」
某・郷友会に詳しい女子「さあ、昔かららしいよ」
とにかく、何を聞いても基本的にはこのセリフが返ってきます。

女子(とくに1年生女子)には何もかも知らされません。
作る灯ろうはたいてい動物型なのですが、どんな動物を作るか決める場にも加われませんし、いつから作り始めるかも知らされません。差し入れをするので作業場は分かりますが、進行具合も知らされません。

ラインもガラケーもない時代です。
郷友会男子や上級生の女子からは「運んでからのお楽しみ」を言い訳にカヤの外に置かれました。
なのに一方的に差し入れを強いられます。
1年生の女子のできることを言ったら、学校に運ばれた灯ろうをみて、

一年生女子「恐竜だね」
一年生女子「トリケラトプスだっけ?」

と言い合うくらい。そして、男女問わず招集がかかり灯ろうの枠に紙を貼り、仕上げるのです。これにはコツがあり障子の張替えをしたことがあればピンとくる方法ですが、某・郷友会では「秘密だから」と言われてました。

とはいってもわたしは某・郷友会に良い感情を持っていなかったので、在校当時でも聞かれれば「○○だよ、秘密らしいけど」と公開してました。

そして、この某・郷友会には、さらによく分からない<決まり>がありました。
まず、地元で枠を作るのは1年生男子で、当番表が作成されます。この作成当番表は誰かが勝手に作るようです。

本人の希望や予定を聞いて作成しないので、
「作成当番表に予定された男子が出席できるかどうか、当日にならないと誰も分からない。」
「作業場所に来ても上級生は上級生で固まっている」そうです。

男子後輩「行ったら自分しかいなくて、(作り方も分かんないし)しばらく待ったけど誰も来なかったから帰ってきた」
と聞いたこともあったような。運よく、本当に運よく親切な上級生が来てくれれば、少しだけ教えてくれることがあるそうです。

上級生は基本何も教えてくれないし、そもそも上級生がこないときもある。
それでいて出来が悪いと「やりなおし」と壊される。

これを何度か繰り返し、かといって、出来上がらないと郷友会全体の問題なので、途中から手伝ってくれるそうです。

一方、女子はこれまた誰かが(上級生でしょうが、男子か女子かは分かりません)勝手に「差し入れ当番表」なるものを作成し、「差し入れ当番」になります。

わたし「その日に都合が悪かったらどうなるの? 行かなくてもいいわけ? だったらしないけど」
噂を教えてくれた同学年の女子「それはちょっと(まずいんじゃない?)」

わたし「そもそも誰が言い出したの」
女子「前に誰かが言い出して、そうなったんだって」

わたし「その人がいなくなっても続けるの?」
女子「そうみたい」
わたし「はあ」

今とは違い、氏名、自宅の住所・電話番号がのった名簿を上級生が持っていたようです。
わたしも同級生に連絡をするとき、学校の名簿(入学時に配られます。
同学年の全員のクラス、氏名、住所、出身中学校、自宅の電話番号が記載されてます。)を使って電話連絡をした記憶があります。
某・郷友会の件で下級生に連絡した覚えはありません。 

ある日突然自宅に電話がかかってきて
女子(上級生だったかな?)「何日に差し入れ(食べ物)を持ってきてください。場所はどこどこ。」

わたし「さしいれって。おかずですか、ご飯ですか。」
女子「さあ、適当に。どんなのでもいいんじゃない?」

当番は年に二回。当時は文化祭が夏休み後だったのでお昼あたりにさしいれを一回、灯ろうを学校に運んだ朝にお弁当を作って学校に届けるのが一回です。

夏休みの方は、一日に一人の女子が振り当てられたのか、それすら分からないです。
差し入れの中身を見て、父は言いました。
「お前、本当にこれでいいのか」
わたしは怒り心頭だったので

「日付を勝手に決めてきて、変更不可。人数も分からない、おかずだけでいいのか、白いご飯だけでいいのかも、好みも分からない、お礼も通り一遍。余ったら捨てるんだってよ。そもそも食べるかどうかも分からないからこれでいい。あまりに可哀そうだと思うなら卵焼きでもつくれば。わたしは作らないけど」

父は私の剣幕におされ、「おぉ、そうか」
とかなんとか言いながら3年間作業場まで送ってくれました。ありがとう父。
結局、父は卵焼きを作ったのかな~。うーん、覚えてないです。

お礼は届けたときに「ありがとうございます」の一言がもらえますが、それっきり。
山に冷蔵庫はないし、夏で食中毒の危険があるから残った物は捨てるしかありません。

ちなみに、お弁当は必ず食べるとわかっていたので、もう少しましなお弁当にしました。

灯ろうのを運びこんだ翌朝の方は、1年生から3年生までの女子全員に招集がかけられます。
<女子一人につき、男子用のお弁当を一個持参>が指令内容です。

もちろん、朝食用か、昼食用かなんて伝えられません。たぶん朝食だったのかな? 本当にもう
【情報の囲い込みがひどい】。

お弁当を持っていつもより早く登校すると、向こうからよれた男子が数人やってきて、お弁当を受け取ったような気がするんですが、、、

渡した場所も思い出せません。二棟の裏だったような?それともお弁当を渡した後で、始業時間に間があるので図書館近くの二棟の裏にたむろっていたのかな?  

翌朝のお弁当箱はまとめて回収。まとめてありがとう、です。
当然、お弁当箱も返ってきません。
「お弁当箱が帰ってこない」ことを事前に周知されたかは忘れました。
2年目からは「返ってこない」とはっきりわかったので、使い捨て容器にしたと思います。

それにしても一年の時は女子6人、男子何人??? 全員で10人以上いたはずで、「今年は女子の方が多い」という会話はなかったから、男子も7~8人くらいいたのではないでしょうか。
と、すると、一人一個では足りない計算です。

まあ、ないよりはましなんでしょう。近くにセブンイレブンもありました。
こうして「材料費をだしてもらおう」と考えもしない差し入れ当番は3年間続いたのでした。

当時は「マネー」に興味がなかったのですが、今思い返すと、学校(生徒会)から<郷友会費>がでたのではないでしょうか。
それはもしあったとしたら、どこへ行ったのでしょうか。
 歓迎会のカレーの材料や、灯ろうの材料費でしょうか。予算&会計は一年生女子には公開されませんでした。

【ほっとくと、会計の詳細が部員や郷友会全員に明らかにされない】

これは某・郷友会だけでなく、部活もそうでした。
運動系の部に所属してましたが、「部費の徴収もないし、会計係がいないから会計報告もその発想もない」状態でした。ただし遠征や合宿があったのでそのときは学校から補助がでた、と聞いています。

正確には、県大会までの遠征の交通費は自費で、宿泊費や大会での参加費・お弁当代が学校の補助です。<越>と呼ばれる大きな大会になるとよくわかりません。

ただ部活の方は3年になり
「部費はどうなってる?」聞いた時、
「部室にあるよ、見る?」
と聞かれ、
「赤字じゃなければそれでいい」と答えたか、「ふーん」と答えたか。
当時それほど関心の薄い事柄でした。

校風としての<バンカラ>。
卒業生でもあり、当時60代でわたしたちと一緒に定年退職された社会科の先生(某・郷友会OBでした)は
「学帽にマント、肩がぶつかると先輩たちは《失敬》と言って立ち去った。憧れましたねえ」
と授業中に話されていました。

先生の在学時は学帽だか襟に学年によって線が入っていて、先輩か後輩がすぐにわかったのです。この頃のバンカラとは服装や硬派な態度を意味し、礼儀は存在していたようです。
いつの頃にか<服装や態度からの荒々しさ>はなくなり、礼儀も影をひそめ、某・郷友会には<上級生に従う>空気が残ったようです。

また、ネット情報によると入学式が行われた講堂に初代校長の「起居有禮」(起居有礼)の額があったそうですが、
「そういえば緑の文字の額があったっけ? 最後の文字が読めなかった」であんまり覚えていません。

ともかく所属当時の某・郷友会では「日常に礼あり」(個人的に意訳しました)はすたれ、
「ありがとう」
「どういたしまして」などの個別の美しいやり取りはありませんでした。というか、中学校のときはあまり感じませんでしたが、

某・郷友会男子「女子&下級生は口は出すな。(お弁当は)くれるって言うからもらう」
某・郷友会女子「わきまえた女子になれ」
というわけの分からない空気がありました。

今で言うスクールカーストならぬ某・郷友会カーストです。一年生は最下層カーストで、女子は男子の下のカーストでしたので、二重の抑圧を受けていたのです。

ザ・村社会です。(実際は町でしたけど。)
上意下達(じょうい かたつ)。
コミュニケーションの断絶というか、異性間&上下間でコミュニケーションの必要性を知らなかったように思われます。

おまけ
この記事を書くにあたり、調べました。インターネットは本当に便利です。

「昭和23年4月 高校として発足。
(それまでは旧制中学なので、男子中学校です。)

昭和24年(1949年)4月からはじめて女子をまじえた編入生入学式」
とあるので、高校としては一年後から共学だったんですね。

<男子高校>だったのはたったの一年!

「えぇ~。それで私が入学した年(1989年、女子編入から40年後)までもあんなに男子校の風潮が残っていたとは。」

わたし「もはや化石」
高1「だから(色々)なくなったんでしょ」

つらつらと「共同体である女子の意見を聞くことなしに進める」ある元男子校の一部について書いてきましたが、「男子がいないから女子だけでする」女子校の場合はどうなんでしょうか。

そして思春期に異性がいない影響はどのくらい長く続くのでしょうか。大変興味深いです。論文をかいた人はいないのでしょうか。
共同体である女性の意見を聞くことなしに決める男性、「夫が勝手に同居を決めた」と根は同じニオイがします。

おまけ

県内エリート男子高で“性教育”の名の下セクハラにあった図書館司書46歳女性、教職員カーストで圧された声とは

ヤフーニュース 2024.2.13 。女子SPA!

後編はこちら

前編は推敲中です。

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