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古本における書き込みの楽しみ

 私は読書が好きで、なかでも近代文学が好きだ。

 それはもともと自分で本を買って読み始めたきっかけが国語の教科書に載っていたような明治・大正・昭和の作家の作品だからで、なぜそれらの本を買い始めたかというと、ブックオフに行けば百円で買える文庫本が豊富にあるからだった。文庫本であれば退屈な授業中に机の下で読んでいても不自然ではないし、教師に訝しげな目を向けられればそっと机の引き出しに流すようにしまってしまえばそれでいい。実に理に適っていた。

 それから本を読むのが好きになり、文芸雑誌や現代の作家を追いかけて読むようになったかというと、全くそんなことにはならなかった。ひとつには近代文学に慣れ親しみ過ぎたということがある。はじめは巻末の注釈をいちいち確認しながら読み進めていたのが次第にその必要が無くなり、また旧仮名遣いもスムーズに読むことができるようになった。旧漢字も全て読めるわけではないものの文脈から推測することができるようになった。そうなると近代文学というものが特別なものではなくなり、古本屋で知っている作家の名前を見かければごく気軽に手に取るようになった。

 そしてもうひとつ。これが主な理由なのだが、近代文学には作家が自分の人生や生活を題材にして書いたいわゆる私小説が多く、作中には同時代の作家や先輩作家の名前が頻繁に登場する。そうするとその作家の作品も読みたくなるし、ある小説で取り上げられたエピソードについて当事者である著者とは別の作家の小説や随筆でもそのエピソードが取り上げられていたりするのだ。そうすると一つのエピソードをいくつかの視点で読むことができる楽しさがあり、事実でありそうなことや、小説として脚色したであろうことがなんとなく見えてくるのだ。

 そんな読み方をし始めると、近代文学の時代から出ることができなくなってしまった。一人の作家に注目すると、そこからどんどん読みたい本が増えていくのだ。古本屋を見つければ気になっている作家やその作品に名前が出てきた作家の本を探し、最近では古本屋の在庫を検索し購入することができるサイトも登場して、家に居ながら本を探して購入することができるようになった。とはいえ本当は古本屋を巡って書架を端から一冊ずつ見ていきながら探したいのだが、私の今住んでいる街には古本屋が極端に少ない。それだから家で探して買えるというのは大変素晴らしいことで、ありがたい時代になったものだ。

 さて、そのように私は古本を探して買うことが趣味なのだが、今回はそんな古本買いにおける楽しみをひとつ紹介したいと思っている。タイトルにもある「書き込み」だ。

 古本屋で本を買って読み進めていると、蛍光ペンや赤ペンで線が引いてあったりページの端に書き込みがしてあったという経験はないだろうか。多くの人にとってはそうだと思うのだが、私はこれがとても嫌だった。古本とはいえできれば綺麗な状態で読みたいし所有したいという気持ちがあって、書き込みを見ると自分の本が汚されたような不快さがあったのだ。だから古本屋でも立ち読みができるのであればパラパラと頁をめくって書き込みが無いことを確認したりしていた。店によっては一番後ろのページに鉛筆で金額と一緒に「書き込みあり」などと書いている場合もある。厳密にいえばそれ自体が書き込みなのだが、できるだけ書き込みが無い本を買いたいと思う者からするとありがたい。

 そのようにしてできるだけ書き込みがされていない本を探して買っていた。それでも時には書き込みがされている本を買うこともあったが、私は蒐集家というわけではないし、それほど神経質に書き込みを嫌っているというほどでは無いのでそれはそれで楽しく読んでいた。

 ある時、古本販売サイトで草野心平の『茫々半世紀』を購入して読んだ。この本は帯にも書かれている通り草野の自伝的回想記で、「茫々半世紀」とその続編、とまではいかないおまけのような「変な旅」が収録されている。

草野心平『茫々半世紀』

 草野は中国広東省の嶺南大学に在籍していたのだが、大正十四年(1925年)に上海で起きた反帝国主義のデモに対する弾圧事件(五・三〇事件)による排日・排英運動の激化で大学卒業を待たずに帰国している。「茫々半世紀」はその嶺南大学時代の友人たちと東京で久しぶりに再開するところから始まるのだが、その場で売り出された号外によって盧溝橋事件が起きたことがわかり、友人たちは祖国である中国に帰ることになる。そこから第二次世界大戦が始まり、草野と友人たちは互いの消息がわからなくなってしまう。

 戦争が終わってしばらく経ったあと、草野は訪中文化使節団の一人として文化革命後の中国を旅することになった。久しぶりに嶺南大学にも訪れ、友人とも再会する。これが大まかなストーリーだ。中国への旅と中国の友人たちとの交友を通して草野自身の半生が語られる。青春の物語でもあり、旅行記でもあり、歴史の物語でもある。文化使節団には檀一雄もいて、中国各地の料理を食べて酒を飲むグルメエッセイとしても楽しめるかもしれない。

 「変な旅」はソヴィエトの作家同盟に招待された草野がロシアからヨーロッパを巡り、インドを経由して香港に至る旅の記録だ。途中の回想には金が無い草野が当時『銅鑼』の同人だった宮沢賢治に「コメ一ピヨウタノム(米一俵頼む)」と援助を頼む電報を打ったところ、病気療養中の賢治からは何かの足しになればと造園学の大きな本が送られてきたというエピソードが登場する。

 本を読み終えると、裏表紙をめくったところに書き込みがあるのに気がついた。何行かに渡って書き込まれていて、古本屋が書き込んだ金額などの内容では無さそうだ。ここにその文章を写してみよう。

(1983.7.25 読了)
連休でゴルフを3ランド回って、いよいよ
今月から営業課長として勤めがはじまる
読みかけであった「茫々半世紀」を読み読了。
中国の旧友との35年ぶりの出会いを、こんなにも
美しい文章で書けるとは。
「変な旅」はまだ読んでいない。
これから本を読む時間が少なくなることであろう
残念なり。
草野心平はビールをよく飲む。きっと大変
好きなのであろう。

 どうだろうか。大変味わい深い文章ではないだろうか。この人はいつも本を読み終えると裏表紙をめくったところに感想を書き込む習わしだったのか。それとも営業部長になりゆっくり本を読む時間が無くなるであろうこのタイミングで書き込んでおきたかったのか。「変な旅」を読み終えていない段階で書き込んでいるので後者である可能性が高い。この人が誰だかはわからない。四十年以上前に課長に昇進した人というのはもう定年を迎えているかもしれない。もしかしたら既に亡くなってしまっている可能性だってある。そのような人が人生の節目に読んだ本の感想とその時の心境を、時間も場所も超えて今読むことができるのだ。こんな書き込みもあるのかと思った。

 私はそれまで古本についてはなんとなく古い本という認識しかなく、絶版になっているような本であればその本が出版された当時から現代の自分の手元にやってきたということに感慨があったのだが、その当時にこの本を読んだ人が居てその人にもこの本に対して考えたことや感情があったのだということには思いが至らなかった。かつての所有者であり読者であった人の痕跡だと思えば書き込みはただの汚れでは無くなり、むしろ古本ならではの楽しみだとさえ言えるのではないだろうか。

 私は相変わらず古本を買い続けているが、もう書き込みの有無をことさら確認することはしない。むしろまた『茫々半世紀』にあったような良い書き込みに出会うことを楽しみにしている。


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