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【読書】町田康『口訳 古事記』と石川淳『新釈古事記』を読んだ

 古事記を読んでみたいとずっと思っていたものの、なかなか読めずにいました。

 日本最古の歴史書で、日本という国土の成り立ちから国作り、天皇の誕生とその系譜が書かれているという古事記ですから、日本に生まれて生活している以上必修科目という感じがします。学生時代に歴史の授業でさらっと触れたような気もしますが、因幡の白兎や八岐大蛇の話がそこに書かれているというくらいの認識しかありません。とにかく、読みたいとはずっと思っていたのですが、読まずに過ごしてきました。

 一度挑戦したことはあります。戦後無頼派の小説が好きになり古本屋で文庫本を買ってきては読んでいた時期に、石川淳『新釈古事記』を買って読んでみました。ところが耳慣れない長ったらしい名前の神が次から次へと出てきて、これらの登場人物の名前を把握しようとするだけで煩わしく、苦手意識が生まれてしまい、序盤を読んだだけで放り出してしまいました。

 それから、ああやっぱり古事記というのは難しい本なんだなと諦めてしまい、いつか読めたらいいな、くらいに頭のどこかに留めながら一切触れることなく過ごしてきました。

 そして先日、町田康『口訳 古事記』が出版されたことをSNSで知りました。そして、これなら読めるかもしれないと思いました。町田康の小説は以前から好きで読んでいますし、同じ大阪出身の作家、いしいしんじが現代京都弁で源氏物語を訳した『げんじものがたり』はとても楽しく読むことができたので、おそらくラフな大阪弁で楽しく訳されているであろう町田康の古事記なら読めるのではないか、と期待したのです。

 実際に、町田康『口訳 古事記』はおもしろかったです。初めて古事記を読み通すことができました。とはいえ、序盤はやはり長ったらしい名前の神々が沢山生まれ出てきます。これはもういちいちその名前を把握することは諦めて、神の名が羅列されているところは字面だけ眺めるように読み飛ばして、のちの具体的なエピソードに出てきた神の名とその生まれた場面はまた戻って確認するというようにして読み進めていきました。そうして純粋にエピソードのみを楽しむように読んでいくと、神々というのはなんて人間らしいのでしょうか。一神教の神ように全知全能という感じはまるでありません。疑い、試し、欺き、喜び、妬み、強奪し、殺戮し、むしろ現代の人間よりもむき出しのエゴのままに知恵や力を駆使して自分の願いや目的を叶えようとします。その善悪以前の純粋さとでもいうところが神と人とを分けるところなのかもしれません。

 純粋とはいえ神にも嫌なやつがいるというのは有名な因幡の白兎のエピソードで、これは大国主神(オオクニヌシノカミ)が兄の神々と一緒に八上比売(ヤカミヒメ)を娶ろうと向かっている途中に出てくる話です。

 兄の神々が、彼らの荷物を負わせた大国主神に先立って歩いていくと、皮を剥がれて苦しんでいる兎を見つけました。そこで兄の神々は、「海の潮を浴びて、高い山の上で風に吹かれていれば治るだろう」と教えます。もちろんそんなことをしたら赤肌がヒリヒリと余計に痛むので、言われた通りにした兎はさらに傷つきます。なんて意地悪な神たちでしょうか。そしてその、痛みに泣いている兎のところに大国主神がやってきます。大国主神は「川の真水で体を洗って、蒲の穂を敷き詰めてその上で寝ていれば治るでしょう」と教えてやります。大国主神、いいやつですね。

 でもこの話も元はと言えば、兎が海を渡ろうとした時にワニ(鮫)を騙して「自分たち兎とワニとどちらが多いか比べよう」と言って陸まで横並びに橋のようにさせたのを、数えるから言ってその上を歩いていき、そうしてそのまま黙って渡り切ればいいものの、最後の一匹を踏み越える時にうっかり「騙されたな」と口を滑らせたことで、激怒したワニたちに皮を剥ぎ取られたのです。ワニもそこまでしなくてもと思いますが、兎も馬鹿なやつだなと思います。でもその何につけても極端なところがおかしなところでもあります。

 その後も兄の神々は大国主神を殺そうとしていろいろと策を練り、実際に大国主神は殺されるのですが、その大国主の騙されっぷりと殺されっぷりがおもしろくて声を出して笑ってしまいました。大国主神は殺されても生き返るのですが、そうするとまたあっさり騙されて殺されたりして、この生き死にの扱いの軽さというのも神の話ならではで、スケールの大きさというか、やっぱり極端なところですよね。そこがおもしろい。

 そんな神々の豪快な話も、邇邇芸命(ニニギノミコト)が木花之佐久夜比売(コノハナサクヤビメ)を娶ろうとした際に、姉の石長比売(イワナガヒメ)と一緒に娶ってくれと言われたのを断って佐久夜比売だけを娶ったことで、永遠の命が失われ、我々人間と同じように寿命をもつようになります。そして神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)が日本を統一し、天皇としてこれを治めます。これが神武天皇で、ここから代々の天皇の話になっていきます。やっていることはそんなに変わりませんが、やはり話のスケールは人間らしくなってきます。

 以降の話では、個人的には「日本武尊」の章に出てくる倭建命(ヤマトタケルノミコト)の話が印象深いです。乱暴者ゆえに父から疎まれて遠征と戦の日々を送らされる倭建命ですが、母にその悲しさを訴え、遠征の途中には妻が自ら海の神の生贄となってしまい、その妻を惜しみます。そして戦いの日々に疲れ果てて旅の途中で息絶えてしまいます。戦に長けていて、確かに暴力的な人物ではあるのですが、肉親に愛されない悲しさを常に抱えていて、自ら進んで生贄となった妻の件や、亡くなった後に多くの人が嘆き悲しんだことを考えると、人望は厚かったのでしょう。その一面的でない性格が人間らしく、読んでいて胸に迫るものがあります。

 さて、町田康の名訳によってはじめて古事記を読み通すことができましたが、そうなると以前挫折した石川淳『新釈古事記』の方に再挑戦したくなります。そして、読み始めてみると物語の内容が頭に入っているからか、今度はすらすらと楽しく読むことができるではありませんか。町田康の訳の、会話を膨らませて掛け合い漫才のようになっているようなおもしろさではありませんが、簡潔で格調高い文章で、時々挟まれる短い解説にはユーモアもある石川淳の訳もまたこれで魅力があります。ここで両者の訳を並べてみましょう。

 大国主神は根乃型洲国に着いた。
「いっやー、ここが根乃型洲国か。陰気なところだなあ。おっ。大きな宮があるなあ。多分あれがきっと須佐之男命の宅でしょうな。行ってみよう」
 大国主神は須佐之男命の御所の戸を叩いた。
 ドンドンドン、ドンドンドン。
「御免ください。須佐之男命はご在宅でしょうか」
「はーい」
 とうちから返事をする声があって出てきたのが須勢理毘売、須佐之男命の娘である。
「急にすんません」
「いえいえ」
 と言って互いに目と目を見交わして、
「あっ」
「あっ」
 と小さく声を上げたのは、見た瞬間、互いに好ましく思ったからで、
「結婚しましょう」
「そうしましょう」
 ということになり両名はその場で結ばれた。人間からするとまったくもってなんちゅうことをさらすのかと思うが神なので仕方ない。

町田康『口訳 古事記』講談社

 さて、大国主、はるばる根ノ国に下りついて、スサノオの住む宮にまいる。その宮の内にはいったとき、あっと、おのずから足がとまった。そこに、うつくしい目が稲妻のようにわが身にそそがれた。スサノオのむすめスセリヒメである。目と目が合い、こころとこころとが通って、なにをためらうのか、女のほうからすすんで、おもいの色濃く、ただちに事に出て、契をかわした。神神の色事、末の世の人間のもたもたには似ない。

石川淳『新釈古事記』ちくま文庫

 こうして並べてみると両者の違いがよくわかります。ただ、石川淳『新釈古事記』ちくま文庫版の西郷信綱による解説によると、「神神の色事、末の世の人間のもたたもには似ない」の部分は原典に無いらしいのですが、町田康も「人間からするとまったくもってなんちゅうことをさらすのかと思うが神なので仕方ない」と似たニュアンスのことを書いていて、その、現代の価値観からすると唐突に思われるかもしれない箇所に補足を加えようという意図は共通しているのがまたおもしろいところだと思います。

 最後に、これは石川淳『新釈古事記』を読むことでわかったのですが、町田康『口訳 古事記』は仁徳天皇の崩御で終わっているものの、原点の古事記はまだもう少し続きがあります。『新釈古事記』には履中、反正、允恭、安康、雄略、清寧、顕宗天皇のエピソードがあり、以後は「末段」として、ほぼ天皇家の系譜、王宮ならびに陵墓の所在の記述のみになります。この頃のエピソードについては『日本書紀』を参照するのが良いとも書いています。なぜ『口訳 古事記』が仁徳天皇の崩御で終わっているのかはわかりませんが、手に取る本の厚みとしては今くらいがちょうど良いかもしれません。その辺りを考慮したのか、連載時の都合なのか、とにかく、『口訳 古事記』のおかげで初めて古事記を読み通すことができて本当に良かったです。こうなってくると、こうの史代『ぼおるぺん古事記』も気になるところです。

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